太平洋諸地域の分割
イギリスの植民地化の過程で、オーストラリアの先住民アボリジニー は白人のもたらした病気と飲酒の習慣、迫害によって人口を激減させつつ奥地に追いやられ、タスマニアの先住民は絶滅した。
太平洋諸地域の分割
オセアニアはオーストラリア大陸、ミクロネシア(「小さな島々」の意)、ポリネシア(「多数の島々」の意)、メラネシア(住民の肌の色から「黒い島々」の意)の島嶼部からなる地域である。18世紀後半にイギリス人のクック(ジェームズ=クック)が3回にわたり探検航海を行うと( 地理上の探検)、イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・アメリカから特産品の白檀・黒檀をあつかう貿易商、捕鯨関係者、宣教師が訪れるようになった。オーストラリアは1788年にイギリスが流刑植民地として以来白人の入植が進み、農牧地が開発され、19世紀半ばには羊毛業が主要産業となった。1850年代にはゴールドラッシュが到来し、イギリスばかりでなくヨーロッパ諸国やアメリカからの移民もひきつけるようになった。そのころから各植民地で議会政治による自治政府が生まれ、1901年には6つの州などからなるオーストラリア連邦が成立し、イギリス帝国内の自治領となった。
ニュージーランドは、1840年にイギリス領植民地となり、1907年には自治領となった。その間、牧羊業が発展したが、19世紀末には冷凍船が就航しイギリスに食肉を輸出するようになった。イギリスの植民地化の過程で、オーストラリアの先住民アボリジニー Aborigine は白人のもたらした病気と飲酒の習慣、迫害によって人口を激減させつつ奥地に追いやられ、タスマニアの先住民は絶滅した。ニュージーランドでは白人の土地買収に反対するマオリ人 Maori の抵抗も武力で抑え込まれた。イギリスではまたフィジー諸島を領有し、フランスはタヒチ島を中心にフランス領ポリネシアをきずき、メラネシアのニューカレドニアも領有した。
1880年代にドイツがニューギニア北東部の領有を宣言してから、オセアニアの分割は本格化した。結局、ニューギニアはオランダ(西部)、イギリス(南東部。のちにオーストラリア領)、ドイツの3国で分割された。ドイツはビスマルク諸島を領有し、スペインからカロリン諸島・パラオ諸島・マリアナ諸島を譲りうけ、ニューギニアの北に位置するミクロネシア全域に支配領域を伸ばした。イギリスはニューギニアの東に位置するソロモン諸島、クック諸島(のちにニュージーランド領)などを領有し、北ボルネオも併合した。サモア諸島の領有をめぐってはドイツ・イギリス・アメリカが競合したが、1899年ドイツとアメリカの間で分割された。アメリカ合衆国は1898年アメリカ=スペイン戦争の結果、スペインからフィリピン・グアムを獲得した。ハワイは18世紀末にカメハメハ朝 Kamehameha (1795〜1893)が統一王国をたてたが、欧米人の進出にともない1840年には立憲君主制をしいた。アメリカからハワイ島に渡ったサトウキビ業者などの策謀により、1893年リリウオカラニ女王 Liliuokalani (位1891〜93)は退位させられ、その後、98年に合衆国に併合された ❶ 。こうして、英・仏の共同統治となったニューヘブリデス諸島(現ヴァヌアツ)をのぞいて太平洋地域は列強によって分割された。