江華島事件 朝鮮の開国
雲揚号兵士朝鮮江華戦之図(月岡芳年筆/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

朝鮮の開国

1875年の江華島事件契機に、日本政府は、朝鮮に強い圧力をかけ、釜山・仁川・元山の3港の開港のほか、領事裁判権や日本側に一方的な無関税特権などを含む日朝修好条規を結んだ。これは、日本がかつてペーリーの黒船に威嚇されて不平等条約を押しつけられたのを、そっくりそのまま朝鮮に対して適用したかたちであった。

朝鮮の開国

17世紀以降、清の従属国の立場にあった朝鮮王朝では、19世紀になると官僚間の党争や権門けんもんによる政治独占など、政治的動揺が続いた。農村では貧富の差の拡大や相次ぐ災害などにより、社会不安が高まっていた。1811年におこった洪景来の乱こうけいらいのらんは、不平を抱く官人層に指導された大規模な農民反乱であった。こうした状況のなか、1860年代になると、欧米列強は従来からの鎖国政策を続ける朝鮮にも開国を迫るようになった。列強の開国要求に対し、当時の朝廷の実権者大院君(1820〜98, 国王高宗(朝鮮)の父)は、強硬な攘夷政策をとってこれを拒否した。やがて明治維新後の日本政府も、朝鮮に対して開国を要求するようになった。そこでの西郷隆盛(1822〜77)、板垣退助(1837〜1919)らの征韓論はひとまず退けられた。1875年におきた江華島事件を契機に、日本政府は、朝鮮に強い圧力をかけ、翌76年、釜山プサン仁川インチョン元山ウォンサンの3港の開港のほか、領事裁判権や日本側に一方的な無関税特権など、不平等条項を含む日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。

江華島事件と日本の対朝鮮外交

江華島事件とは、朝鮮王朝の首都漢城(ソウル)に近い江華島沖合で、日本の軍艦が無断で測量をおこない、さらに飲料水補給を理由に上陸をはかったため、朝鮮側の砲撃をうけて交戦した事件である。事件後、黒田清隆を代表とする一行は、6隻の軍艦とともに江華島に乗りこみ、終始威嚇的な態度で交渉に臨んで、朝鮮に不平等条約を押しつけたが、これは、いわば日本がかつてペーリーの黒船に威嚇されて不平等条約を押しつけられたのを、そっくりそのまま朝鮮に対して適用したかたちであった。実際、外務卿寺島宗則は、駐日アメリカ公使ビンガム Bingham に「ペリー提督が下田に来たる如きの処置なり」と語っているし、イギリス公使パークス Parkesは、日朝修好条規と1858年の日英修好通商条約はよく似ていると所感を記している。

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