武帝の政治
武帝は、諸侯に対して推恩の令を発布してその勢力をいっそう弱め、また地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒の提案によって儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。
武帝の政治
武帝(漢)は、諸侯に対して推恩の令を発布してその勢力をいっそう弱め、また地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒の提案によって儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。
さらにはじめて元号を定めるなど、皇帝の権力をいっそう強化して中央集権体制を確立した。こうして武帝の時代に漢帝国の最盛期が出現した。
武帝は、対外的には祖父の文帝(漢)、父の景帝(漢)2代の努力によって蓄積された国家財政の充実を背景に、積極的な軍事行動をおこなった。
彼は北方の匈奴に対しては、劉邦以来の消極策を改め、将軍の衛青・霍去病らに命じて数回にわたって攻撃を加え(紀元前129以降)、苦戦の末に匈奴をゴビ砂漠の北に追いやった。こうしてオルドスや河西地方(甘粛省)にも勢力をのばすことができた漢帝国は、オルドスに朔方郡、河西地方に敦煌郡など4郡をおき、軍隊を駐屯させてその侵入に備えた。
また、武帝は即位後まもなく(紀元前139頃)張騫を西方の大月氏のもとに派遣し、匈奴を挟み撃ちにする約束をとりつけようとはかった。結局のところ、大月氏側にその意志がなかったため、その目的は果たせなかったが、これを契機に西域の事情が知られるようになった。
そののち武帝は張騫を烏孫に使者として派遣したり、服属を拒否した大宛(フェルガナ)に遠征したりして、タリム盆地の諸都市にまで支配を広げた。
南方では、秦の滅亡に乗じて自立した南越を征服し(紀元前111)、ベトナム北部を支配下に入れ、南海など9郡をおいた。
また東北では、衛氏朝鮮を滅ぼして(紀元前108年)、朝鮮北部に楽浪・真番・臨屯・玄菟の4郡をおき直轄地とした。
しかしながら、度重なる外征によって、豊かであった国家財政は苦しくなった。そこで武帝は新たな貨幣(五銖銭)を鋳造し、塩・鉄・酒の専売をおこない、均輸法・平準法を実施するとともに商人に重税を課し、官位・官職を売り、罪人でも金銭をおさめるものは罰を免除するなどの政策を実施して財政の立て直しをはかった。その結果、民衆は重い負担に苦しみ、社会不安はしだいに激しくなった。
均輸法・平準法
- 均輸法は、地方に均輸官をおき、政府が必要とする物品の購入と中央への輸送を担当させたもので、これによって商人の中間利潤を防ぎ国家財政の充実をはかった。(紀元前115施行)
- 平準法は、地方で物価が下がると均輸官が購入して中央へ送り、都におかれた平準官がこれを貯蔵し、物価が騰貴するとこれを販売して物価を引き下げることをはかった。(紀元前110施行)
これらの政策は、政府が商品の運搬および物価の統制をおこなうことによって、大商人の利潤を抑え、国家収益の増加をはかろうとしたものである。
武帝ののち、宣帝(漢)のとき、国家財政の再建がはかられたが、十分な成果をあげるまでにはいたらなかった。そののち、宮廷内部では外戚や宦官の専横を招き、皇帝の権威は失われていった。
また、地方では土地を兼併して勢力を増した豪族がしだいに成長していき、地方政治を握るまでになっていた。こうしたなかで、ついに外戚の王莽は儒教をたくみに利用して帝位を奪い、前漢を倒して新(中国)を建国した(8年)。
大宛遠征と汗血馬
張騫の報告した西方のめずらしい産物のうちで、武帝(漢)が特に注目したのは大宛(フェルガナ)の汗血馬であった。漢では天馬といわれ、1日に千里走り、血の汗を流したといわれる。李広利の大宛遠征では、3000頭の名馬を連れて帰った。大宛は、東西交通の要衡にあたるため、これ以前にもアケメネス朝ペルシアや、それに続くアレクサンドロス3世の征服を受けている。