西北インドの情勢
バクトリア王国のギリシア人は、紀元前2世紀後半に本国バクトリアの領土を失うと、パンジャーブ地方に本拠地を移した。紀元前1世紀ギリシア人勢力が衰えたころ、中央アジア系の遊牧民であるサカ族(インド・スキタイ族)とパルティア族の侵入が相次ぎ、さらに1世紀の後半クシャーナ族が南下して西北インドを支配下においた。クシャーナ朝は2世紀半ばにでた第4代君主・カニシカ1世の時代が最盛期で、南はガンジス川の中流域におよび、北は中央アジアで後漢と接していた。
西北インドの情勢
グレコ・バクトリア王国
西北インドでは、マウリヤ朝崩壊後に中央アジア方面からの異民族の侵入が相次いだ。まず到来したのはバクトリア王国のギリシア人で、紀元前2世紀初めから侵入を開始し、同世紀の後半に本国バクトリアの領土を失うと、パンジャーブ地方に本拠地を移した。ギリシア人の諸王のなかでは紀元前150年ころにでたメナンドロス1世が名高い。仏教文献の『ミリンダ王の問い(ミリンダパンハー)』によると、この王はギリシア的信仰を捨て仏教の信者になったという。
紀元前2世紀後半の世界地図
紀元前1世紀に入りギリシア人勢力が衰えたころ、新たに中央アジア系の遊牧民であるサカ族(インド・スキタイ族)とパルティア族の侵入が相次ぎ、さらに1世紀の後半にはクシャーナ族が南下して西北インドを支配下においた。
クシャーナ朝
クシャーナ族(貴霜)はイラン系の民族で、かつて大月氏がバクトリア地方などにおいた5諸侯のひとつをだしていたが、1世紀後半にでたクシャーナ朝初代君主・クジュラ・カドフィセスとクシャーナ朝第3代君主・ヴィマ・カドフィセスの時代に強力となり、他の諸侯を倒したのちに南下し、西北インドを征服した。
このクシャーナ朝は2世紀半ばにでた第4代君主・カニシカ1世の時代が最盛期で、その領域は南はガンジス川の中流域におよび、北は中央アジアで後漢と接していた。また首都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャーワル)におき、漢とローマを結ぶ交通路の中央を押さえて経済的にも栄えた。クシャーナ朝が発行した大量の金貨は、ローマ貨幣と同じ重量基準でつくられている。カニシカの家系はゾロアスター教を信奉していたが、彼はまたアショーカ王とならぶ仏教の保護者としても知られ、その治世に第4回の仏教結集がおこなわれたという。
カニシカの貨幣には仏像やギリシア・ローマの諸神、ゾロアスター教・ヒンドゥー教の諸神の像がうちだされており、この王が宗教的に寛大で、諸民族・諸文化の混在する大帝国をたくみに統治したことが知られる。
クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝の版図地図
クシャーナ朝は3世紀にササン朝に圧迫されて衰え、一時復興したが(キダーラ朝)、5世紀末ころ新たにおこったエフタル民族のために滅ぼされた。