大秦帝国 縦横 ~強国への道~
秦は「商鞅の改革」による富国強兵に成功して弱小国から大国へと成長したが、秦の第25代公・孝公の死後、旧勢力によって一番の功労者であった商鞅を処刑したところまでを描いた「大秦帝国 -QIN EMPIRE-」の続きとなる作品。孝公の嫡子である第26代公であり、秦で最初に王を称した恵文王・贏駟(えいし)の代、慣例にとらわれず、外国の優秀な人材を積極的に登用し、大胆な外交策を展開した。その結果秦は大きく発展し、巴蜀、義渠など周辺諸国を次々と征服した。恵文王(秦)が中原へ打って出た東進策は後の天下統一の礎になった。
強大化する秦に対し、魏人の縦横家公孫衍(こうそんえん)が各国に渡り唱える「合従策」に、魏人だが秦の恵文王・贏駟(えいし)に仕える縦横家・張儀は「連衡策」で打ち破っていく。
秦の恵文王・贏駟(えいし)の長男・贏蕩(えいとう)(武王)が跡を継ぐがわずか4年で急逝し、次男・贏稷(えいしょく)(昭襄王)がその跡を継ぐところまでの戦国時代中期、数百年に及ぶ戦乱を経て周の諸侯の国は、秦・斉・楚・燕・韓・魏・趙の7つの国に集約され覇権を争っていた時代、どのように秦は弱小国から強大国へ発展を遂げたのかが51話のスケールで描かれている。「大秦帝国」三部作のうちの第二部にあたる。
周 > 東周 > 戦国時代
周 紀元前11世紀 - 紀元前256年 | 西周 紀元前1027年頃 - 紀元前770年 | 周・武王が殷を滅ぼして周王朝を開く。 | |
東周 紀元前770年 - 紀元前256年 | 春秋時代 紀元前770年 - 紀元前403年 | 犬戎が周の首都鎬京を陥落。洛邑へ遷都。 | |
戦国時代(中国) 紀元前403年 - 紀元前221年 | 晋が韓・魏・趙(三晋)に独立。 |
大秦帝国 縦横 ~強国への道~
登場人物
秦
嬴駟(えいし)
秦の第25代公・孝公(渠梁(きょりょう))の嫡子。秦の第26代公。
秦の初代王・恵文王(秦)。魏紓との間に蕩(のちの武王)、羋八子の間に稷(のちの昭襄王)をもうける。
「商鞅変法」による改革を堅持し、魏人だった張儀を重用した。
嬴華(えいか)
恵文王(秦)の異母弟。王族・政治家・軍人。将軍。
「要塞の虎」の異名を持つ。観沢の戦いで公孫衍による魏の寝返りにより大敗し深手を負う。
贏疾(えいしつ)
恵文王(秦)の異母弟。王族・政治家・軍人。将軍。
樗里疾(ちょりしつ)。樗里子とも呼ばれる。知恵者として有名。嬴駟同様、張儀の良き理解者でもある。武王の代では右丞相。
贏虔(えいけん)
太傅。秦の第25代公・孝公(渠梁(きょりょう))の兄。贏駟の伯父。
駟が太子だった頃、白氏一族を虐殺したため、太子首傅だった贏虔は監督不行きを理由に商鞅から「鼻削ぎの刑」にされた。
太子・贏蕩(えいとう)
秦の第2代王・武王(ぶおう)。嬴駟と魏紓の子。稷の異母兄。
太子時代に目に余る軽はずみな言動により、父王・贏疾は太子すげ替えを考えるが、長子が継ぐことが混乱を防ぐとの贏疾(えいしつ)や張儀の意見を聞き入れ蕩が即位する。
公子・贏稷(えいしょく)
秦の第3代王・昭襄王(しょうじょうおう)。嬴駟と羋八子の子。蕩の異母弟、義渠琰の義理の弟。
父王の跡継ぎ問題で王族から追われ母・羋八子と共に燕、趙の人質となる。
司馬錯(しばさく)
将軍。恵文王(秦)・武王・昭襄王の3代に仕える。司馬靳の祖父、司馬遷の八世の祖。
蘇萱(そけん)
無一文だった張儀がはじめて秦に来た時に泊まった宿屋の女将。
張儀に求婚されるが、蘇萱は一緒に宿を営み平凡に暮らせる人がいいと断る。
贏辛(えいしん)
秦の王子。
魏の嗣公子と問題を起こし、秦の法により右腕を処刑される。
白起(はくき)
嬴疾、嬴華に才能を認められ函谷関の前線に召集され、魏冉と出会う。太子・蕩(とう)と魏冉と3人は戦で生死を共にする。
魏冉(ぎぜん)
山賊の頭・姫狐(周王朝の姫)の手下だったが、張儀に連れられ、姫狐と共に秦に入り、兵士となる。偶然にも羋八子の弟だった。
櫟陽姫(やくようひめ)
嬴駟の従姉。
韓の将軍・韓朋と結婚したが一方的に離縁され、秦に戻る。嬴駟は実の姉のように慕っている。
魏章(ぎしょう)
秦の将軍。
魏の王子だったが、先の孝公の時代に河西で捕虜となり秦へ行き、魏から秦に寝返ったと誤解され、そのまま秦に残った名将。秦の政変で秦を去る。
贏壮(えいそう)
親衛隊長。旧臣関内候(かんだいこう)の子。
秦が楚討伐の際、関内候は私財をすべて供出し、嬴駟に贏壮の士官を申し入れた。
旧勢力
甘龍
太師。献公、孝公、恵文王(秦)に仕える。
商鞅(しょうえい)の変法により弾圧され、商鞅を処刑に追いやる旧勢力の長。義渠や魏と組み、改革を固持する嬴駟(えいし)の暗殺を企てる。
杜摯
中大夫。
商鞅(しょうえい)の変法により弾圧され、商鞅を処刑に追いやる旧勢力。義渠や魏と組み、改革を固持する嬴駟(えいし)の暗殺を企てる。
周
昭文君(しょうぶんくん)
周の公子。東周の公。
周王朝37代にわたって保持され、それをもつものがすなわち天子とされた九鼎を持つ。
姫狐(きこ)
山賊の頭。周王室の姫・昭文君の妹。
燕の平太子との結婚に向かう途中戦に巻き込まれ、山賊に助けられてそのまま山賊の頭となるが、張儀と出会い、手下の魏冉と共に秦に入る。
張儀に思いを寄せるが、燕の太子の元へ嫁いでいく。
韓
韓王
韓の初代王・宣恵王(韓)(威侯、韓康)
王座を無理に押し付けられたが、政も戦も好きでなく、囲碁さえ打てればいいと考えている。嬴駟の戴冠式でもすすんで馬車をひいた。
公仲侈(こうちゅうし)
韓の宰相。
公孫衍の合従策に失敗すると張儀の策を押し付ける魏の言いなりより、独自に秦と組んで生き残るよう韓王に進言する。
奐(かん)
韓の太子。
父王と違い、国の存亡を掛けて策を練る。公孫衍の合従に承諾した韓であったが、国力の弱い韓は秦と戦うべきでないと進言する。
趙
趙王
趙の初代王・武霊王(趙)(ぶれいおう)
紀元前326年、父王を継ぎ14歳で即位する。野望を達成するための準備として胡服騎射を取り入れた。
平原君(趙勝)
戦国四君。武霊王(趙)の子。恵文王(秦)の弟。
肥義(ひぎ)
重臣
蜀
蜀王
龍門で各国が集まった嬴駟の戴冠式で、嬴駟の王を称することに不服だった蜀王は献上品を土の塊にした。
10年後、蜀が巴(は)と紛争が起こるとそれを誤り、秦が介入しないよう求めた。
魏
魏王
魏の第3代王・恵王(魏)。宰相であった公叔座の商鞅の推挙を聞き入れなかったため、のちに商鞅が秦で大改革を成功させ強国にし、魏を脅かす存在になったことを後悔した。商鞅亡き後も衰退の一途をたどる中、傲慢で横暴、感情的な態度は魏の才人を失うことになる。
彭城で秦が王を称することを邪魔し、花嫁を刺客にして嬴駟暗殺を企て、戦争に負けても領地を手放さない。
魏紓(ぎじょ)
恵文后。郡守・魏修(ぎしゅう)の娘。
後の恵文后。蕩(とう)(のちの武王)の母。
恵王(魏)から嬴駟の暗殺を命じられるが失敗に終わる。
張儀(ちょうぎ)
魏の名士で縦横家。諸国を遊説してまわり、窃盗の疑いをかけられ袋叩きに合い、羋八子、義渠駭と出会う。のち、秦で嬴駟に認められ、客卿となる。河西奪回に成功し秦の宰相となる。蘖桑での3国会談に失敗し魏に戻るが公孫衍に秦の間者と見破られ、追放されて再び秦で宰相となる。
公孫衍(こうそんえん)
魏の武将。学識の深さは犀の角のように得難く、洞察力は犀の角のごとく鋭いことから犀首(さいしゅ)と呼ばれる。
魏に裏切られた公孫衍は嬴駟に才能を高く評価され秦の総大将となる。河西の戦いで大勝し大良造(だいりょうぞう)になるが、故郷の魏で隠居する。魏嗣の命懸けの説得で再び魏に仕え合従策を行う。
龍賈(りょうこ)
魏の将軍。
恵王(魏)が無理強いした河西の戦いで、公孫衍率いる秦軍に大敗し、捕虜となるが公孫衍の兵法に感服し自害する。
恵施(けいし)
宋出身の思想家・政治家。名家。魏の宰相。
魏王から斉候に王を称すべしと提言。
魏赫(ぎかく)
魏の太子。
酒に溺れる無能な太子。異母弟の暗殺を企て廃される。
魏嗣(ぎし)
公子。庶子。王子から太子へ。魏の第4代王・襄王。魏赫の異母兄。
嬴駟の戴冠式で妃を誘拐し追われていた義渠王を助け、義渠と魏の盟約を結ぶ。国を思い、公孫衍を尊敬する。楚の傀儡となる弟の高王子を暗殺する。
魏無忌(信陵君)
戦国四君。三代昭王の末子。
田斉
斉王
田斉の第4代王・宣王(斉)(せんおう)。父王・威王(斉)と並び名君とされる。
田嬰(でんえい)
宣王(斉)(せんおう)の弟。王族、政治家。宰相。
合従や連衡などは、大王の歓心を買うための絵空事で縦横家の空論でしかないと思っている。
陳軫(ちんしん)
斉の客卿。縦横家。稷下の学問所の最高学府で講義を受け持っていた賢才。
斉の間者として秦に入国したところ張儀に見つかり、嬴駟に謁見する。
田文(でんぶん)(孟嘗君(もうしょうくん))
戦国四君。公族。田嬰の子。
蘖桑での3国会談で張儀の暗殺を企てる。
公孫衍の韓・魏・趙の合従復活のため、父・田嬰の反対を押し切り、魏の宰相に就く。
楚
楚王
楚の第41代王・懐王(楚)(かいおう)。
張儀の勧めで楚人である羋ア頭(びあとう)を秦の嬴駟に嫁がせる。公孫衍の合従に承諾した後も楚がわざわざ秦と戦うことが必要なのか疑問だった。
昭陽(しょうよう)
楚の宰相。
羋八子(びはつれい)と義渠駭の子・羋琰(びえん)王子を人質にして対義渠、楚に利用する。
屈原(くつげん)
楚の重臣。左徒。詩人。
打倒秦に向けて公孫衍の合従に強く賛同する。すべてに感情的で昭陽に戒められるが、楚王に対しても強く進言する。
高潔な愛国心は、秦の間者であった陳軫の心をつかむ。
羋八子(びはつれい)
楚の王族の末裔。羋ア頭(びあとう)。
後の秦宣太后。秦の稷(しょく)王子(のちの昭襄王)の母。
義渠王・駭の子・琰(えん)王子を産むが楚の宰相・昭陽に子供を人質にされ、秦王・嬴駟に嫁ぎ、嬴駟に寵愛される。
子蘭(しらん)王子
楚の王子。
楚の屈原より、貢物を持ってくる秦の張儀の味方をする。
函谷関へ兵糧を運ぶ任務で油断し、秦の新兵だった魏冉と白起に焼き討ちにされ、楚軍の撤退を招く。
甘茂(かんぼう)
楚人。張儀の推薦で秦に仕える。将軍。
嬴駟の跡を継いだ蕩に重用され左丞相となる。蕩の野望を叶えるべく宜陽の戦いを任され、時間はかかったが勝利する。
春申君(黄歇)
戦国四君。考烈王を擁立し、国勢の傾いた楚を立て直した。
燕
平太子
燕の第4代王・昭王。
周王室の姫・姫狐と結婚するが、父王の宰相の子之に政権を奪われる。
義渠(西戎)
義渠(ぎきょ)王
涇水の北の義渠の戎の王。
秦との戦いに敗れて戦死する。義渠は壊滅状態になる。
義渠駭(ぎきょがい)
王子。父王の死後義渠(ぎきょ)王となる。
秦に侵入し、秦軍に敗れた義渠軍は壊滅状態になり、父王は戦死、母も内乱で死ぬ。義渠は生き延び、楚に身を潜める。羋ア頭(びあとう)と出会うが王位奪回のため義渠に連れ戻される。
反対する伯父を殺してまで羋ア頭に会いに行くが、羋ア頭は嬴駟(えいし)を選び嫁いでいく。
琰(えん)王子
義渠駭と羋ア頭の子。
生まれてすぐに楚に人質になり、義渠に戻るも秦との戦いで義渠が壊滅状態になり、逃げ延びて商人・猗蔚の元で身元を隠して働いていたが、店で喧嘩をして人を殺してしまい牢に入るが、義渠の王子と分かると、画策する贏壮に客人として招かれたのち、魏紓の養子となる。
戦国時代 紀元前315年頃 戦国諸国の版図
戦国時代 紀元前250年頃 戦国諸国の版図
あらすじ
第1話 – 第10話
第1話 決意
戦国時代中期、秦の君主、嬴駟(えいし)は「商鞅(しょうおう)の変法」による改革を堅持すること、そして魏と斉とともに彭城(ほうじょう)で王を称することを朝議で発表する。改革により勢力を奪われた旧勢力の甘龍(かんりょう)や杜摯(とし)は、嬴駟のこの決議に反感を持ち、密かに蜂起を企てるのだった。一方、斉と魏は互いに利用する下心を抱えながら、秦が王を称すことに合意していた。だが秦への憎しみが勝る魏王は、配下である将軍・公孫衍(こうそんえん)に彭城への途上で嬴駟を暗殺することを命じる。
紀元前334年、魏と斉の君主は彭城で同盟を結び互いに王を称する。衰退の一途をたどる魏は、巨大化する秦の東進を阻むため斉との関係修復を図り、斉の君主に王を称するよう勧めた。
第2話 彭城(ほうじょう)へ
公孫衍(こうそんえん)らの襲撃を切り抜け、さらに彭城へ向かった嬴駟(えいし)ら一行は、途中で魏の将軍の出迎えを受け、郡守の屋敷で一泊することになる。しかしそれは、嬴駟らの命を狙うための罠だった。これらはすべて魏王の策略であったが、嬴駟は郡守の娘・魏紓(ぎじょ)の手引きで脱出する。その後、式典に駆けつけたものの、結局間に合わなかった嬴駟は、魏王を激しく非難する。そんな時、秦の軍が河西に集結しているとの情報を得た魏の宰相・恵施(けいし)は、この状況を穏便に切り抜けるため、嬴駟に和解を求めようとし、魏紓を后として差し出そうとする。
- 紀元前334年、斉の威王の子宣王(斉)は魏の恵王(魏)とともに王号を称した。
- 周の特使・昭文君(しょうぶんくん)は、嬴駟(えいし)のひととなりに歓心する。
第3話 暗殺
嬴駟(えいし)は魏の宰相、恵施(けいし)からの縁談の申し出を承諾する。しかし、その裏で魏王は魏紓(ぎじょ)に匕首の剣を渡し、婚礼のさなか、嬴駟を暗殺するよう命じるのだった。同じ頃、甘龍(かんりゅう)と杜摯(とし)は義渠(ぎぎょ)や魏と組み、蜂起の準備を着々と進めていく。魏王の命令どおり、婚礼で魏紓が嬴駟を刺すと、甘龍と杜摯は嬴駟の伯父、嬴虔(えいけん)に即位を迫る。嬴虔は宮中へ向かい、嬴駟の安否を確かめようとするが、嬴疾(えいしつ)に制止されてしまう。
義渠王:涇水の北の義渠の戎の王
第4話 甘龍(かんりょう)の死
嬴駟(えいし)は、嬴虔(えいけん)の協力を得て、甘龍(かんりゅう)と杜摯(とし)の謀反を阻止し、秦に攻め入った義渠(ぎぎょ)も壊滅状態に追い込む。嬴虔は、杜摯勢との戦いで負傷し死ぬが、その死の直前に、秦公剣を嬴疾(えいしつ)に託す。秦に惨敗した義渠は鳴りを潜めていたが、王子は生き延びていた。その叔父は秦への復讐を果たすべく、楚との関係を着々と築く。一方、王子は逃亡先の楚で羋八子(びはつし)という女性と知り合い、恋に落ちるが、叔父に引き裂かれ、草原へと帰ることになる。
紀元前330年、義渠は秦軍に敗れ壊滅状態となり義渠王は戦死する。謀反を企てた旧勢力は失敗に終わり一掃される。
第5話 河西(かせい)の大勝
河西を占領した魏軍との戦を前に、嬴駟(えいし)は総大将の人選に頭を痛めていた。嬴疾(えいしつ)の推薦により、秦軍は公孫衍(こうそんえん)を総大将とし、魏の老将・龍賈に勝利する。同じ頃、魏出身の論客・張儀は周の公子、昭文君と出会う。張儀の才覚を高く評価した昭文君は、路銀と湛盧の剣を与えたのだった。秦へ向かった張儀は、大商人・猗蔚(いい)と共に賭場で戦の賭けに参加する。大方の予想とは反対に、秦軍の勝利へ張った二人は大勝するが、秦軍に捕まり連行されてしまう。
- 湛盧之剣(たんろのけん):孫子兵法第30話 伝説の刀匠に出てくる中国の呉の王の闔閭が持っていたとされる、黒く澄んだ宝剣。
- 河西の戦いで大敗した魏軍10万のうち8万を失い、総大将・龍賈は捕虜になり、自害する。公孫衍は大良造に。
第6話 張儀(ちょうぎ)参内
魏人の店で魏の嗣公子が暴れ、そこに乗り込んできた嬴辛(えいしん)と衝突し、死者が出る事件となる。嬴駟(えいし)は、嬴辛を法に基づき裁こうとするが、公孫衍(こうそんえん)が魏人の店にいたことも問題となる。戦で母国と戦い大良造となった公孫衍は、割り切れないものを感じ、秦を離れることを決意する。引き止めようとする嬴駟に、公孫衍は張儀をその後任に推薦する。宮殿に呼ばれた張儀は持論を展開するも、大臣たちのそしりを受け、侮辱されたまま、その場から出て行くことになる。
第7話 連衡(れんこう)策を説く
大商人・猗蔚(いい)の話に興味を持った嬴駟(えいし)は、張儀と再び面会し、客卿として秦に招く。張儀は嬴駟に連衡策を説き、魏から河西を奪回する方法として魏と盟約を結んだ上、秦が魏から奪った3城(蒲陽、曲沃、焦城)を返還するよう提案する。張儀は自ら使者として魏へ向かい、魏王に盟約を受け入れるよう提言する。一方、嬴駟が張儀の策を採用したことで、反対の立場を取った公孫衍は秦を去るのだった。
第8話 張儀(ちょうぎ) 楚(そ)へ
河西返還の正式な調印を無事に果たし、帰国した張儀と入れ替わりに、公孫衍は秦を去った。河西の問題が落ち着いたところで、嬴駟(えいし)は南方を押さえるため、まずは楚と修好を結ぶことを考える。そこで張儀は楚と姻戚関係を結ぶことを提案し、さっそく楚王のもとへ交渉に行く。ちょうどその頃、羋ア頭(びあとう)は義渠駭(ぎぎょがい)との間にできた子供を産んでいた。一方、羋ア頭に会いに行こうとしたのを叔父にたしなめられた駭(がい)は、言い争いになり、叔父を斬ってしまう。
- 嬴駟と魏紓の間に蕩(とう)が生まれる。(のちの武王)
- 義渠駭と羋ア頭の間に、背中に鳳凰のあざのある琰(えん)が生まれる。
- 張儀は宰相となる。張儀が楚王に、楚の第33代王・昭王の時代に、第14代秦伯哀公が援軍を送り助けた話をする。その話は「孫子兵法第23話 愚行の末に」に描かれている。昭王の母は平王の太子建に嫁ぐ予定だったが平王の側室となった秦の公女。
第9話 盟約と花嫁
張儀は楚との盟約締結という大役を果たし、雲夢沢の女、羋ア頭(びあとう)を秦公・嬴駟(えいし)の妃とするべく雲夢沢を訪れる。羋ア頭は義渠(ぎぎょ)王・駭(がい)との間に子供をもうけ一児の母となっていたが、秦へ嫁ぐ決心をする。一方、楚を訪れた駭は、羋ア頭が秦に嫁いだことを知り慌てて後を追う。だが羋ア頭は駭を捨て、秦へと向かう。嬴駟は楚との盟約締結を機に、いつまでも河西を返還しない魏の討伐を開始する。同時に楚から来た妃、羋ア頭に溺れてゆくのだった。
赫(かく)太子の刺客・衛もうが魏嗣(ぎし)を襲う。
紀元前328年から325年にかけて、秦はわずかな間に魏の大部分を占領。河西の地の奪還も果たした。秦はこう山、函谷関、黄河という自然の要塞を得た。
第10話 雪辱
和睦を求めてやって来た魏の宰相・恵施(けいし)に対し、張儀は取引として、嬴駟(えいし)が王を称することを認めるよう求める。さらにその式典では、嬴駟の乗る馬を魏王に引かせるという、屈辱的な要求もする。恵施(けいし)は渋々要求を持ち帰ることになる。羋ア頭(びあとう)は、義渠(ぎぎょ)王、駭(がい)との間にできた子供のことを嬴駟に打ち明け、宮殿を追い出される。しかし嬴駟は御者になりすまし、羋ア頭についていく。
才人・張儀の手腕が光る。
第11話 – 第20話
第11話 二人の賢才
楚王は使者を通じ、嬴駟(えいし)に王を称さぬよう進言せよと羋ア頭(びあとう)に迫る。息子を盾にとる卑怯なやり口に、羋ア頭は使者の要求を突っぱねるのだった。一方、羋ア頭を忘れられない義渠(ぎぎょ)王・駭(がい)は、嬴駟が王を称す式典を狙い、彼女を奪還しようと考える。張儀は秦に潜入していた斉の客卿・陳軫(ちんしん)を見破り、嬴駟に謁見させる。陳軫は秦での仕官を拒むが、彼の洞察力に脅威を感じた嬴駟は、斉に帰すまじと策を弄するのだった。
陳軫の見解:斉が燕を討てば韓、魏、趙が、楚が蜀を討てば斉が動く。秦も斉の目があり魏や韓を討てない。秦が魏・韓と王を称し盟約を結ぶことは、まさに蚕食と言える。
嬴駟の見解:これほど徹底した洞察力を持つ者は、張儀・公孫衍・陳軫だけである。
第12話 龍門(りゅうもん)への道
秦の特使として魏を訪れていた陳軫(ちんしん)は、式典への参加を魏王に呼びかける。秦に従うしかないことを悟っていながらも、魏王はすぐに返事をせず、陳軫をいったん宿へ帰らせる。しかし宿で待機していた陳軫はさらわれ、斉に戻される。宮廷の夫人の集まりに参加した羋ア頭(びあとう)は、場違いな服装をして他の夫人たちの前で恥をかく。それを見た魏紓(ぎじょ)は、羋ア頭を自室に呼んで化粧を教える。龍門の式典がいよいよ始まる。各国の君主が次々に駆けつけるが、もちろん心から祝福する者ばかりではなかった。一方、魏や韓の宰相からも、「王の具合が悪いので馬車は引けない」との申し出がある。
趙が滅べば斉が勢いづき、魏と韓を制圧する。魏と韓が滅べば次に狙われるのは秦のため、趙を生かせば魏や韓をうまく利用でき、斉だけでなく楚の脅威も回避できるので秦は趙を助けた。
- 趙王:14歳で即位した趙王は、趙国は弱く王を称するにはまだ早いと言う。
- 烏氏王:全軍を率いて反乱を目論んでいたが秦に制圧される。
- 魏王:風邪のため馬車は引けないと恵施が報告に来る。
- 韓王:隊長を崩したと公仲侈が報告に来る。
- 蜀王:嬴駟に送る献上品に土の塊を渡す。秦は笑ってそれを蜀の土地を献上すると受け取る。
第13話 戴冠式
龍門(りゅうもん)では嬴駟(えいし)が王を称す式典が始まろうとしていた。式典の会場で義渠(ぎぎょ)王は、羋ア頭(びあとう)を誘拐する。一方、張儀は嬴駟の屈辱を晴らすべく、嬴駟の乗る馬車を魏王が御し、その馬を韓王が引くことを迫り、両国に承諾させる。王を称した嬴駟の勇姿に臣下たちは大いに沸く。そのさなか、秦軍の捜索により羋ア頭が救出される。追い詰められた義渠王を魏の嗣(ぎ)太子が救出、義渠王と魏王は秦に対抗すべく同盟を結ぶのだった。
- 紀元前324年、秦の君主・嬴駟は王を称すに至る。(恵文王(秦)) 数百年に及ぶ努力と”商鞅の変法”の成果であった。かつては野蛮な国と蔑まれた君主の戴冠に秦中が大いに沸いた。嬴駟は王を称することでその野望を天下に宣言したのだ。”秦は函谷関を越え中原へ打って出る”と。
- 嬴駟と羋ア頭の間に生まれ羋ア頭は八子となる。
- 秦の妃の位:第一・王后、美人、良人、八子(俸禄が千石の高い位)
第14話 犀首(さいしゅ) 復活
魏の嗣(ぎ)太子は、自ら罪人として処刑されるという芝居を打ち、公孫衍(こうそんえん)を都に呼び戻すことに成功する。公孫衍は魏の将軍として迎えられ、合従策を進めるべく韓へと向かう。嬴駟(えいし)のもとに、韓に嫁いでいた従姉(いとこ)が一方的に離縁されたとの知らせが入る。張儀らは、怒る嬴駟を説き伏せ、公孫衍の合従に対抗するために、まずは韓と盟約を結ぶことを勧め、張儀も韓に向かう。一歩先に韓に到着した張儀は、韓王に連衡策を持ちかけ、盟約成立寸前の段階までこぎつける。そこで公孫衍は囲碁の好きな王に対し、囲碁を語りながら合従の重要性を説き、王の心をつかむ。交渉に失敗した秦は、韓 魏 趙を封じるべく、斉や楚と手を組むことを考える。
- 合従策:戦国七雄のうち、巨大な秦以外の六国が縦(従)に同盟し、共同戦線で秦に対抗しようという策。
- 韓の武安(ぶあん)候・韓朋(かんほう)(韓の将軍)が嬴駟の従姉の嬴姜(えいきょう)を一方的に離縁する。
第15話 楚の屈原(くつげん)
張儀(ちょうぎ)は楚に行き、屈原(くつげん)と会う。屈原は若くして外交を担当する左徒を務める楚の重臣である。屈原は楚も秦のような変法を行うべきだと主張するが、誰も取り合わない。秦の使者である張儀にも敵意をむき出しにし、楚は秦と対抗するべく斉との同盟を進めると言い放つ。一方、老獪な宰相である昭陽は、秦との同盟を承諾する。屈原の存在を疎ましく感じる張儀は、彼を失脚させるべく子蘭(しらん)王子に接近するのであった。
- 張儀は昭陽に、羋八子(びはつれい)と義渠駭の子・羋琰(びえん)王子を義渠に戻すよう求める。
第16話 3国会談
息子が都に来ていると知った羋八子(びはつし)は、規則を破って滞在先の宿屋萱蘇(けんそ)へ行くが、結局会えずに王宮へ戻る。この行為に処分が下り、羋八子(びはつし)は幽閉される。蘇萱(そけん)は責任を感じ、都を去ろうとするが、張儀の送った兵に呼び戻される。ここで張儀は改めて蘇萱に求婚するが、生きる道が違うと断られる。蘖桑の会盟が始まり、秦、斉、楚の3国はそれぞれの思惑を胸に集まる。挨拶を兼ねた最初の会談が物別れに終わったうえに、斉から「次の会談の場所を、宋公の行宮にしたい」との申し出がある。身の危険を感じた張儀は、密かに手を打つ。
- 楚の上官大夫・侍臣の靳尚(きんしょう)
- 羋八子は八子から少使に降格、幽閉
第17話 交渉決裂
蘖桑(げつそう)での秦、斉、楚の同盟交渉は決裂に終わり、楚と斉は、秦を阻むため魏韓を攻撃する。魏王は公孫衍(こうそんえん)の合従のせいだと非難し、恵施(けいし)の進言により、魏は秦へなびき始める。一方、秦の王宮では、嬴華(えいか)が同盟決裂は張儀の失策であると厳しく非難していた。憤った張儀は秦を去ることを決意する。蘇萱(そけん)は張儀に思いを伝えるが、張儀は志を諦められぬと拒むのだった。魏に帰国した張儀は恵施(けいし)に宰相の位を要求し、恵施(けいし)はこれに応じる。
第18話 魏の宰相 張儀
宰相として魏に迎えられた張儀は、秦楚と組み、斉を討つよう魏王に提案する。楚軍の撤退を望む魏王は喜んで受け入れる。しかし楚は軍の撤退および共同で斉を討つ交換条件として、楚の人質となっていた魏の高(こう)王子を、魏の太子とするよう要求する。これは、楚が魏を操るための策だった。それを見抜いた現太子の魏嗣(ぎし)は、弟の魏高(ぎこう)を殺す。魏と結んで斉を討つこととなった秦は、魏韓の領内の行軍を認めさせたうえに、韓の弱みに付け込んで、韓軍の出動を要請する。
秦は張儀を使い、魏の抱き込みを図り、楚は軍の撤退を盾に高王子を太子とし魏を操ろうとした。魏は曖昧な対応で狡猾に危機を回避したものの、国内に多くの火種を残すことになった。
第19話 寝返り
公孫衍は、軍の目付け役として前線に同行した張儀を拘束する。公孫衍は張儀の魏への仕官そのものが、秦の策略であると見抜いていたのだった。そんなこととは露知らず、嬴華(えいか)率いる秦軍は斉軍を攻めるが、味方のはずの魏軍の寝返りで大敗を喫する。魏の裏切りに怒った秦は魏への報復攻撃を開始する。魏王は嗣(し)太子を次期王と指名し、秦に謝罪の意として領土の割譲を命じ、息を引き取る。魏嗣は王に即位すると、公孫衍の合従策を推し進めていく。
- 観沢の戦い 魏の公孫衍は秦と組むと見せかけ斉と結託して秦を敗北させた。張儀は斉討伐のため秦・魏・韓と連衡するも失敗。公孫衍の合従策は諸国に受け入れられていく。
- 紀元前319年、魏の第3代君主・恵王(魏)崩御。魏嗣(のちの襄王)が即位する。
第20話 命拾い
牢に入れられていた張儀は、斬首を免れ追放処分となるが、魏王(魏嗣(ぎし))は張儀を密かに殺すよう衛氓(えいもう)に命じる。山中で衛氓に殺されそうになった張儀であるが、運良く山賊の集団が乱入し、命拾いする。山賊の頭領は女性で、しかも周王室の姫、昭文君の妹・姫狐(きこ)だった。張儀は彼女と、その手下である魏冉(ぎぜん)を連れて、秦へ帰る。張儀は連衡の失敗を嬴駟(えいし)に詫び、死をもって償うと申し出る。しかし嬴駟は張儀を再び秦の宰相に任命し、生きて罪を償うこと、つまり宰相として秦を危機から救うよう命じる。
- 山賊の拠点で莊子が講義していた。
第21話 – 第30話
第21話 戦か和議か
張儀は斉の使者のために盛大な宴席を設ける。目的は魏の合従により、斉が標的になりうるのだと警戒心を抱かせるためだった。一方、公孫衍(こうそんえん)は合従に承諾した楚の屈原(くつげん)を訪ね、秦討伐のための出兵を催促、楚は韓魏趙燕とともに出兵を決断する。5国の侵攻を前に、嬴駟(えいし)は戦か和議か、今までにない焦りと迷いを感じていた。張儀は秦の存続の方法は戦しかないと断言する。さらに自身が兵を率いるという張儀の覚悟に、嬴駟は心を動かされるのだった。
- 離間計(りかんのけい)は、対象の仲を裂くことで状況を打破する戦術。
第22話 迫る連合軍
5国の攻撃にそなえ、秦では兵士の訓練が進められていた。腕の立つ魏冉(ぎぜん)は、視察に来た嬴駟の目に止まり、腕比べをする。一方、白起(はくき)は料理でも才能を発揮し、嬴疾(えいしつ)の目に止まる。さらに白起は、軍の動かし方を料理になぞらえて嬴華(えいか)に説明し、嬴華にも気に入られる。函谷関に先に到着した趙 魏 韓の軍は、楚と燕の到着を待っていた。それに対して、嬴疾率いる秦軍の方も攻撃に出ず、ひたすら守りに入っていた。多くの使者や商人が秦から離れていく中、斉の客卿 陳軫(ちんしん)もまた秦を離れ、楚へ行こうとしていた。そんな陳軫に、張儀はスパイ役を頼む。
斉は、5国の連合軍が勢いづくのを見て合従崩しをやめたため、秦は斉を頼ることはできなくなった。
第23話 王子の愛国心
王子・嬴稷(えいしょく)の国を思う心と知恵に感心した嬴駟(えいし)は、褒美として幽閉されている羋八子(びはつし)に会わせる。嬴駟は羋八子の気遣いに触れ、彼女を許すのだった。函谷関への出陣式で、魏冉(ぎぜん)は羋八子と言葉を交わし、実の姉だと確信する。羋八子(びはつし)は秦が5国に対抗している際に、義渠(ぎぎょ)が背後から侵攻せぬよう、義渠王に直談判に行こうと考えるのだった。一方、張儀は5国の合従を瓦解させようと燕軍の説得を考えていた。姫狐(きこ)は張儀に同行し、燕の軍営への潜入を試みる。
第24話 合従破壊工作
張儀は姫狐(きこ)とともに燕の太子と交渉し、トラブルに巻き込まれて負傷するも、燕軍の撤退に成功する。一方、義渠を撤退させようと出かけた羋八子(びはつし)は、交渉に失敗する。燕の撤退を知った公孫衍(こんそんえん)ら連合軍は動揺する。それに追い討ちをかけるように、楚王は函谷関に向かっていた楚軍に待機を命じる。
- 合従の首長国:楚
- 全軍を率いて函谷関に向かった燕は、その隙に斉が燕を狙い、太子の交代を行っていると張儀から聞き、合従連合軍から避難されないよう、秦が奇襲をかけたことにして撤退させる。
第25話 敵兵拉致命令
新兵を訓練していた白起(はくき)は、函谷関の前線に召集される。そこで、魏冉(ぎぜん)とともに敵陣の偵察を命じられ、楚の子蘭(しらん)王子率いる兵糧部隊に遭遇するのだった。魏冉と白起は楚の兵糧を焼き討ちし、楚軍は撤退を余儀なくされる。こうして、楚魏韓趙燕の5国同盟は燕と楚が抜け、魏韓趙の3国のみとなってしまう。開戦を前に公孫衍(こうそんえん)に再会した嬴駟(えいし)は、全力で戦うことを宣言するのだった。
第26話 決戦 函谷関(かんこくかん)
函谷関での戦いは、秦の圧勝となる。捕虜になった韓の太子は、連行される途中で崖から身を投げて死に、公孫衍(こうそんえん)は戦の責任を取る形で魏を追放され、韓へと向かう。戦に参加しなかった楚は、さっそく秦に取り入る策に出ようとするが、これに対して屈原(くつげん)が激怒する。秦は戦勝ムードにわいていたが、関内侯(かんないこう)ら老臣の一派の動きが不穏であることを案じた櫟陽姫(やくようひめ)が、嬴駟(えいし)に注意を促す。
この戦いは、公孫衍(こうそんえん)の合従策と張儀(ちょうぎ)の連衡策が函谷関(かんこくかん)で激突することで勝敗を競った形となった。
強大な5国連合が各国の思惑で求心力を失い、むしろ危機的状況にあった秦が形成を逆転させた。
これを機に魏・韓・趙は強国の餌食に、楚・斉は自国の保身に走った。
秦の勢いを抑えられる国など、もはやなかった。
第27話 切ない恋心
甘茂は張儀の取り計らいで太子傅の職を得るが、王子の求めに従い武術を教えていたため、后妃の不評を買ってしまう。甘茂は太子傅を辞して軍に入りたいと告げ、張儀はこれを了承する。燕の太子は姫狐(きこ)との縁談を求め、張儀に使者を使わした。秦燕の友好のため、張儀はやむなく姫狐の嫁入りを見送るのだった。同じ頃、公孫衍(こうそんえん)は再び合従を結ぶべく韓王に面会するが、宰相公仲侈の激しい反対に遭ってしまう。
第28話 韓宣戦の波紋
姫狐(きこ)を燕に嫁がせてしまった張儀は意気消沈していた。そんな時、燕で政変が起こり、張儀は姫狐と平太子を助けに行こうとするが、同じタイミングで韓が秦に宣戦布告する。楚は、韓の宣戦布告を受けて、どういう立場を取るか話し合っていた。その席上で屈原(くつげん)と陳軫(ちんしん)の意見が対立する。秦の密偵である陳軫は、屈原の純粋な愛国心に打たれ、徐々に心境が変化していく。蘇萱(そけん)の結婚が虚偽であったことを突き止めた羋八子(びはつし)は、それを張儀に伝える。張儀は燕に向けて旅立つ前に、蘇萱に求婚する。
第29話 東進か 巴蜀(はしょく)討伐か
張儀は、政変のさなかの燕へ赴く。燕の宰相の子之(しし)は盟約締結の条件として、内政不干渉を挙げる。張儀は、政変に破れ国を追われた姫狐(きこ)を案じながらも、やむなく承諾するのだった。秦へ帰国後、張儀は蘇萱(そけん)の思いに心を打たれ、結婚を決める。同じ頃、巴蜀両国の間に紛争が起こる。張儀は韓討伐の後、周に迫り覇業を成すよう進言するが、将軍司馬錯(しばさく)は実利のために巴蜀を討つべきだと主張、秦王・嬴駟(えいし)も巴蜀討伐に同意するのだった。
紀元前315年、燕で第2代王・噲(かい)は宰相の子之を盲信し、堯舜に倣うと言って禅譲を行い、これにより国内は騒乱状態となる。
第30話 王子の初陣
秦は巴蜀への遠征を決行するため、韓への懐柔策として、兵糧を献上する代わりに停戦をお願いすることにした。この交渉に当たった贏疾(えいしつ)は見事に韓王の説得に成功する。韓王から撤退命令が出る中、公孫衍(こうそんえん)は、秦討伐の協力者を求めて斉へ向かう。蕩(とう)王子は、母の心配をよそに、巴蜀遠征に参加する。一方楚は、秦を討つべく、景翠(けいすい)将軍の作戦を実行に移そうと準備を進める。
第31話 – 第40話
第31話 苦渋の割譲案
公孫衍は田文(でんぶん)(孟嘗君(もうしょうくん))に、魏の宰相への就任を要請する。これを了承した田文は、斉王から「魏軍を函谷関に駐留させ、秦の東進を阻め」と命じられる。秦の将軍、甘茂の守る曲沃は、景翠(けいすい)率いる楚軍に包囲された挙げ句、水攻めにより落城する。しかし秦は巴蜀討伐により国内に余剰の兵力がなく、八方塞がりに陥ってしまう。張儀は商於を楚に割譲することを進言し、贏駟(えいし)はしぶしぶこれを承諾するのだった。
第32話 汚い手
監禁状態から、なんとか楚王への謁見がかなった張儀は、商於と引き換えに楚軍撤退の約束を取り付ける。そのやりとりを聞いていた陳軫(ちんしん)は、張儀の提案がウソであることを見抜く。秦のやり方に失望した陳軫は、密偵役を下りる。正式に盟約を結ぶため、楚の使者とともに秦へ戻った張儀は、落馬してケガをする。一方、巴蜀の遠征軍では、危険な任務からはずされそうになった蕩(とう)王子が、自らの腕力を証明し、部隊に残ろうと食い下がる。
第33話 巴蜀(はしょく)を手中に
蜀での行軍中に敵の間者を発見した蕩(とう)王子は単身で襲いかかる。ところが、間者と見間違えたのは若く美しい娘で、蕩は娘にほのかな恋心を抱くのだった。一行は娘の案内で蜀の王宮に到着し、蜀を下す。同じ頃、楚では、子蘭(しらん)王子が靳尚(きんしょう)と屈原(くつげん)失脚について密談する。蜀の陥落後、司馬錯(しばさく)は巴へ侵攻したため、巴人は激しく抵抗する。蕩は覆面の巴人を斬り捨てるが、なんとそれは行軍途中で出会った娘だった。
紀元前316年、巴蜀併合
第34話 6里の土地
商於を奪還できると信じた楚王は、祝いの宴を行う。席上で楚王の甘さを指摘した屈原(くつげん)は、王の怒りを買う。その頃、秦には巴蜀遠征成功の知らせが入る。療養を理由に楚との盟約締結を先延ばしにしていた張儀は、盟約の文書を楚の使者に渡す。しかしその内容は、約束していた商於の地600里ではなく、自分の所有地6里を割譲するという詐欺まがいのものだった。一方、公孫衍(こうそんえん)は韓魏の連合軍で秦を攻めるが、大敗する。勝利に沸く秦のもとに、義渠との戦いで蹇平(けんぺい)が死んだとの知らせが入り、秦は義渠を滅ぼす決意をする。
公孫衍が秦から去って20年後ー
かつて5国で秦を攻め惨敗を喫した公孫衍は、ここで再び韓・魏の連合軍により秦を攻めたが、またも惨敗した。
これにより、公孫衍の合従策は完全に地に落ちた。天下に名を馳せた奇才・公孫衍もこれを堺に影を潜めるようになった。
第35話 楚王の怒り
商於割譲は嘘だったと知らされた楚王は激怒し、秦との開戦を強引に決断する。楚との戦に備え、張儀は「斉と同盟する楚に対抗し、秦は魏韓と盟約を結ぶべきだ」と主張、早速魏韓に使者を送る。だが韓王は、秦との盟約締結の条件として、函谷関での戦いで息子、奐(かん)太子を死に至らしめた秦兵馮高(ふうこう)を引き渡すよう要求するのだった。同じ頃、義渠は秦に滅ぼされる。行き倒れていた琰(えん)王子を保護した商人は、奴隷として咸陽へ連れていく。
紀元前314年、秦は義渠に大挙して攻め込み25城を下す。殷より800年余り続く義渠の歴史はその幕を閉じることとなり、秦は北方の安定を得た。
第36話 義に殉ずる
秦から解放された韓朋(かんほう)は、韓王に対し秦と盟約を結ぶよう勧めるが、自責の念から韓朋は自害する。一方、馮高(ふうこう)は盟約を成立させるため自分の命を差し出す決意をし、韓へ向かう。楚との戦が始まる。丹陽城の前に駐留する魏章(ぎしょう)は、敵将屈丐(くつかい)の守る城の中へ突入するために一計を案じるが功を奏さない。ひたすら守りに徹する屈丐に楚王は怒るが、昭陽はその戦術を評価する。引退を考えた昭陽は、屈原(くつげん)に今後の心得を示す。
第37話 丹陽(たんよう)攻略
張儀の離間の計が奏功し、斉軍が撤退した。その結果、贏華(えいか)の部隊は援軍として丹陽へ向かい、魏章(ぎしょう)の部隊と合流する。籠城する屈丐(くつかい)に対し、魏章は火攻めでこれを攻略したのだった。しかし、楚の名将、景翠(けいすい)は軍を二分し、一方を丹陽の援軍、もう一方を秦の藍田へと差し向ける。藍田は都、咸陽に近く、贏駟(えいし)も危機を募らせる。丹陽を占領した魏章と贏華(えいか)だったが、楚軍の包囲により、守りの手薄な自国を楚軍に脅かされるという窮地に陥る。
紀元前312年藍田の戦い
第38話 勇将散る
丹陽の城を守るため、贏華(えいか)が戦死する。楚の景翠(けいすい)は秦の咸陽を落とすべく進軍するが、またも秦に兵糧を焼かれ、撤退する。秦楚の戦いは秦の勝利となるが、今後、斉の増長を心配した張儀は、あえて楚と盟約を結ぶことが上策と判断。戦勝国であるにもかかわらず、あえて楚に漢中の地を割譲することを秦王に勧める。この提案には、秦王をはじめ大臣らが猛反対し、張儀は立場をなくす。そんな中、楚から盟約締結の条件として、領土ではなく張儀を差し出すよう要求が入る。
陳軫の有名な「蛇足」の話を張儀が話す。
第39話 陳軫(ちんしん)の情け
贏駟(えいし)が止めるのも聞かず、張儀は単身、楚へ向かう。商於割譲で張儀にだまされ、戦でも大敗を喫した楚王は、恨みを晴らすべく張儀を投獄してしまう。張儀は牢内で屈原(くつげん)に殺されそうになったところを陳軫(ちんしん)に救われ釈放される。楚を出国する際、張儀は秦での仕官を誘うが、陳軫は哀れな楚のために力を尽くしたいと告げる。一方、羋八子(びはつし)の侍女項紋(こうもん)は戦死した家族の復讐のため、贏駟の命を狙うが事前に発覚し自害する。
第40話 後継者
贏華(えいか)の墓参りをしたあと、秦王は後継者である太子に誰を立てるべきか贏疾(えいしつ)に相談する。贏疾は長子を立てることが妥当だと答え、その意見に従って、蕩(とう)が太子となる。ところが、太子となった蕩(とう)が、母・魏紓(ぎじょ)の意に反して楚の娘を見初めてしまうことで、波紋が広がる。猗蔚(いい)の店で義渠人と秦人のケンカが起こる。給仕として働いていた義渠の琰(えん)王子は、間に入り、秦の武官を殺してしまう。琰(えん)は逃亡しようとするが、逃げ切れず、猗蔚の店に舞い戻り、身分を明かした上で助けを求める。
第41話 – 第51話
第41話 母を慕う
贏駟(えいし)は、義渠人と乱闘した蕩(とう)太子を叱責する。張儀は乱闘の相手である義渠琰(ぎぎょえん)の身柄を確保しようとするが、贏壮(えいそう)に先手を打たれてしまう。息子である琰が咸陽にいることを張儀から知らされた羋八子(びはつし)は、居ても立ってもいられない気持ちになるが、張儀は自重するよう釘を刺す。同じ頃、贏壮は蕩に取り入ろうと画策し、王后と琰(えん)を自らの屋敷で引き合わせる。蕩と魏の王女との婚礼の夜、花嫁の王女は、巴の娘と密会した蕩に怒り、帰国してしまう。
第42話 画策
贏駟は蕩(とう)を激しく叱責し、太子から下ろそうと考えるが、張儀や贏疾(えいしつ)が反対する。贏壮(えいそう)に脅された猗蔚は、我が身を守るため贏壮に情報を提供する。魏冉(ぎぜん)は蕩太子の家を訪れた際、贏壮に向かって「姐(羋八子(びはつし))に危害を加える者には容赦しない」と言い放つ。息子の琰(えん)が咸陽にいることを知った義渠王・駭(がい)は、命懸けで会いにやってくる。琰を連れ戻すのかと思いきや、義渠王は琰に対して「義渠復興のため、このまま咸陽に残れ」と告げるのだった。
第43話 意外な黒幕
羋八子(びはつし)は生き別れた息子、琰(えん)に会いに行く。しかし、そこにいたのは義渠王であった。邂逅の現場を贏壮(えいそう)に押さえられた羋八子は、贏駟(えいし)に死刑を言い渡されてしまう。羋八子釈放の陳情に来た張儀は、すべては贏壮によって仕組まれたものだと釈明する。だが贏駟は自らが贏壮の黒幕であることを明かす。国を安定させるために、蕩(とう)太子の障害になる羋八子を自ら排除しようとしたのだ。しかし、死刑を思い直した贏駟は、羋八子と稷王子を人質として燕へ送るという張儀の提案に承諾するのだった。
第44話 人質 王妃
羋八子(びはつし)と稷(しょく)王子が人質として燕に送られる。張儀は同行するつもりだったが、張儀を少しずつ大任から外していくべきだと考える贏疾(えいしつ)の進言により、任務から外されてしまう。魏紓(ぎじょ)に見送られながら馬車は出発するが、羋八子は見送りの中に琰(えん)がいたことを後になって知るのだった。贏駟(えいし)は羋八子を人質に送ったことで後悔の念に苛まれる。再び張儀を燕と趙の外交任務に充て、ついでに羋八子に多くの差し入れを届けさせようと考える。政情が不安定な燕に到着した羋八子らは城へ入ることもできず、郊外で暮らし始める。不便な生活の中、召使いたちも次々に去っていってしまう。
第45話 羋八子(びはつし)の受難
燕の太子平は、斉より援軍を得ると政権奪還を試みるが、子之(しし)に破れ、無念の最期を遂げる。同じ頃、羋八子(びはつし)親子も身に迫る危険から逃れようと燕を脱出していた。一方、張儀は、趙と同盟すべく趙王に謁見する。秦との同盟の利を説く張儀に対して、懐疑的な趙王は「秦と斉は共に趙の敵である」と言い放つ。そして、羋八子親子を保護していることを張儀に告げ、同盟の条件として羋八子親子を趙の人質とすることを迫るのであった。一方、秦で贏駟(えいし)に異変が起きていた。
第46話 秦王贏駟(えいし) 崩御
張儀が羋八子(びはつし)のもとを訪れるが、趙王の要求により、秦には連れ戻せなくなったことを伝える。贏駟(えいし)は自分の死期が近いことを考え、贏疾(えいしつ)に「贏壮(えいそう)の行動に注意せよ」と命ずる。病床の贏駟のもとへ琰(えん)がやってきて、憎しみもあらわに、「秦の王室を混乱させてやる」と宣言する。贏駟が息を引き取り、王后・魏紓(ぎじょ)は錯乱状態に陥る。
-
- 燕では、子之(しし)、王、太子も殺害され、韓で人質になっていた燕の王子・姫職(きしょく)が趙によっって呼び戻される。
- 紀元前311年、秦で初めて王を称した恵文王・贏駟が崩御した。慣例にとらわれず、外国の優秀な人材を積極的に登用し、大胆な外交策を展開した。その結果秦は大きく発展し、巴蜀、義渠など周辺諸国を次々と征服した。恵文王(秦)が中原へ打って出た東進策は後の天下統一の礎になったと言われている。
羋八子王妃と稷親子は戦乱の燕から趙に逃れ、趙の人質となる。
第47話 失意の中で
贏駟(えいし)の死後、秦は着実に変化を遂げつつあった。新王・贏蕩(えいとう)の外交政策について苦言を呈した張儀だったが、贏蕩は聞く耳を持たない。贏蕩は自分の意に添わぬ張儀を遠ざけ、贏疾(えいしつ)と甘茂を重用しようとする。しかし、張儀が前王の寵臣であるため、思うに任せずにいた。やがて、宰相の座を狙う贏壮(えいそう)が、張儀を亡き者にせんと刺客を放つ。その刺客に妻の蘇萱(そけん)を射殺された張儀は、傷心のまま秦を去る決意をする。
紀元前311年、贏蕩(えいとう)即位。(武王)。魏、今後は弁舌ではなく剣で外交を進めると言い放ち、楚出身の将軍を追放する。
第48話 再会の杯
張儀が秦を去る。母国の魏に到着すると、息子の帰りを待っていたかのように、張儀の母親が息を引き取る。葬儀のあと、張儀は田舎の料理屋で公孫衍(こうそんえん)と再会し、遊説家としての半生を振り返りながら酒を酌み交わす。妃である魏の姫を追い出した上に、王であるにも関わらず力比べに熱を上げる息子・贏蕩(とう)を魏紓(ぎじょ)は心配する。しかし実際の贏蕩は、王としての野望を果たすべく、着々と計画を立てていた。その内容は、周の天子に迫り実質的な権力を手に入れることであった。その足がかりとして、まずは宜陽(ぎよう)を攻め落とすべく、甘茂を送る。
- 紀元前308年、宜陽の戦い。
甘茂は、 「孔子の弟子曾参(そうしん)は殺人の汚名を着せられたが噂を聞いた母親は信じなかった。2回めに噂を流した時も母親は信じなかった。だが3回めになるとさすがの母親もその話を信じてしまった。ー間違った話でさえ何度も聞けば人は信じる。だから出発の時、戦いが長引けばいちいち報告に戻れないが、他人が何を言おうと私を信じて欲しい」と蕩(とう)と約束をかわす。
第49話 鼎(かなえ)の重み
韓を下した贏蕩(えいとう)は、周の都洛陽へと向かう。その狙いは、周王を秦へと迎え入れ、天下に覇を唱えることにあった。周王が贏蕩の申し出を突っぱねたため、贏蕩は王宮に据えられた九鼎を秦へ持ち帰ろうとする。天下を象徴する宝物、周の九鼎を持ち上げると豪語した贏蕩は、そのあまりの重さに押し潰されてしまう。贏蕩は臨終の床で、腹違いの弟である贏稷(えいしょく)を次期王に指名し息絶える。趙にいる羋八子(びはつし)と稷王子の帰国を巡り、宮中が慌ただしく動き始める。
「第5話 河西かせいの大勝」で張儀が天下が観たいと昭文君に頼んで見た「鼎」。
夏朝・禹(う)王は治水の後、9つに分けた州ごとに鼎を造らせ、各地の産物を鼎に詰め献上させたという9つの鼎が揃う九鼎(きゅうてい)は、周王朝37代にわたって保持され、それをもつものがすなわち天子とされた。
成句:鼎の軽重を問う(かなえのけいちょうをとう)ー上位の者の権威を疑って、地位を奪おうとすること。他人の実力や権威などを疑う事。特に地位の高い人に用いられる。
第50話 謀殺の危機
贏壮(えいそう)らの妨害をくぐり抜け、羋八子(びはつし)と稷(しょく)王子は無事に秦へ帰国する。先王である贏蕩(えいとう)の遺言により贏稷(しょく)を王に就かせることとなったが、贏壮(えいそう)ら一派が猛烈に反発。魏紓(ぎじょ)もそれに振り回され、反対派のトップに担ぎ出される形となる。稷(しょく)の即位式の日、贏壮(えいそう)らはわざと葬儀を行い、妨害しようとする。しかし、その場の話し合いで魏紓が折れ、葬儀と即位式をともに行うこととなる。
紀元前306年、公子・稷(しょく)は当時燕にいたが、武霊王(趙)の計らいで、代郡の宰相の趙固によって燕から趙に迎え入れ秦に送り届けられた。秦では群臣のほとんどが反対するなか、魏冉らの支援により、異母兄である武王(贏蕩(えいとう))の後を継いで秦の第3代王(昭襄王)として即位した。
- 贏壮(えいそう) 関内候(かんだいこう):爵位第19級
- 魏冉(ぎぜん) 将軍、咸陽知事兼任:爵位第20級
- 白起(はくき) 右更(うこう):爵位14級
第51話 覇者への道
王座を狙う贏壮(えいそう)は、贏稷(えいしょく)と羋八子(びはつし)親子の暗殺をたくらむ。魏紓(ぎじょ)を抱き込んだ贏壮は、戴冠式にかこつけた酒宴で贏稷(しょく)を亡き者にしようとするが、罠を見抜いた羋八子は魏冉(ぎぜん)、白起(はくき)とともに阻止へ動く。魏紓は羋八子を憎みつつも、その息子、義渠琰(ぎぎょえん)や贏稷(えいしょく)を思うがゆえに自ら命を絶つ。贏壮自身もまた白起の手にかかり、反対勢力は一掃されたのだった。ここに乱世の覇者となる昭襄王・贏稷(えいしょく)が無事戴冠式を迎え、親政を始める。
「玉」は横3本に縦1本。横の3本は天・地・人。縦の1本は天・地・人を貫く者を表す。つまり「王」。
紀元前305年、昭襄(しょうじょう)王即位の翌年、贏壮らが蜂起したこの事件を後に「李君(きくん)の乱」と言った。羋八子は弟・魏冉とともにこれを平定、息子の王位を確固たるものにした。
以降、昭襄王は50余年にわたる執政において遠方国と結び近隣国を攻める「遠交近攻策」で秦の強大化を決定づけた。
いよいよ秦は覇者への道を歩み始める。
「大秦帝国」第三部へつづく。
戦国七雄概要
戦国七雄
国 | 建国年 | 滅亡年 | 国都 | 始祖 | 滅亡原因 | 姓 | 最初の爵位 | 分封者 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
韓 | 紀元前403年 | 紀元前230年 | 陽、新鄭 | 景侯 | 秦により滅亡 | 姫 | 侯爵 | 威烈王 |
趙 | 紀元前403年 | 紀元前228年 | 邯鄲 | 烈侯 | 秦により滅亡 | 趙 | 侯爵 | 威烈王 |
魏 | 紀元前403年 | 紀元前225年 | 安邑、大梁 | 文侯 | 秦により滅亡 | 姫 | 侯爵 344年:王 | 威烈王 |
楚 | ? | 紀元前223年 | 丹陽、郢、陳、寿春 | 熊繹 | 秦により滅亡 | 羋 | 子爵 | 成王 |
燕 | 紀元前1100年 | 紀元前222年 | 薊 | 召公 | 秦により滅亡 | 姞 | 伯爵 | 武王 |
斉 | 紀元前386年 | 紀元前221年 | 臨淄 | 太公 | 秦により滅亡 | 嬀 | 侯爵 344年:王 | 安王 |
秦 | ? | 紀元前206年 | 雍、咸陽 | 非子 | 反秦軍により滅亡 | 嬴 | 伯爵 | 孝王? |