世界初の巨大帝国ローマはいかに頂点を極め、滅びたのか。
ローマ帝国の興亡を6つのエピソードで綴るスペクタクルシリーズ。暴君・ローマ帝国第5代皇帝ネロの真実に迫った第1話「ネロ」から、東ゴートの侵入によって滅亡に向かう西ローマ帝国と皇帝・ホノリウスの最期を描いた最終第6話「西ローマ帝国の滅亡」までのシリーズ最終話。古代ローマ時代の文献に基づき、歴史家の監修を経て制作されている。
古代ローマ
帝国はこの地から世界征服を目指した。
その戦法はあまりに巧妙で残忍だった。
高度な文明を有する巨大な帝国。
500年もの間その栄華は続いた。
人々はこう言った。「ローマは永遠」だと。
しかし栄華は突然終焉を迎える。
なぜローマは陥落したのか。
権力に固執した若き皇帝。
正義を求め続けた西ゴート族の長。
欲と裏切りに翻弄された古代都市の数奇な運命。
その真相とは?
ザ・ローマ帝国の興亡 第六話 西ローマ帝国の滅亡
あらすじ
410年8月24日 ローマ近郊
5世紀初め、西ローマ帝国は蛮族の西ゴート族に包囲され危地に陥る。
西ゴート族王アラリック1世率いる西ゴート族の兵4万人がローマの城門に集結した。
この頃のローマは無力だった。帝国軍の兵士ですら任務を放棄し逃亡した。
なぜローマは包囲されたのかー。それは2年前の裏切り行為に端を発する。
5世紀初頭、西ローマ帝国は敵の脅威に怯え弱体化していた。敵の名は”蛮族”。ローマ人はそう呼んだ。
中でもフン族の勢力は巨大で小規模の蛮族をも圧倒した。西ゴート族はフン族により黒海周辺の領土を追われ、西ローマ帝国領内に侵入する。
408年夏(2年前)
ローマ帝国中央部 ノリクム属州
ノリクム属州(現代のオーストリアとスロベニアの領域に位置したケルト人の王国、またはその後に成立したローマ帝国の属州。)
西ゴート族は帝国をさまよい続けた。西ゴート族王アラリック1世と義弟アタウルフは、帝国領内で安住の地を得ようと手を尽くし、やっとローマ帝国テオドシウス期第2代皇帝ホノリウスは、西ゴート族に安住の地を与えると約束した。
408年8月
アラリック1世はテオドシウス期第2代皇帝ホノリウスの後見人スティリコと、帝国に仕える見返りとして帝国内に領土を得ようと交渉していた。
だが、この交渉が原因でスティリコは反逆罪で逮捕・処刑された。
西ローマ帝国首都・ラヴェンナ
スティリコの処刑は皇帝ホノリウスの新たな側近オリンピウスが企てた計略だった。
幼くして即位(2歳でコンスルに就任、393年に「アウグストゥス」の称号を授かり、395年、10歳の時に父テオドシウス1世が死去し、遺言で兄アルカディウスが帝国領の東半分(東ローマ帝国)を、ホノリウスが帝国領の西半分(西ローマ帝国)をそれぞれ分割して統治した。)した皇帝ホノリウスの気質がローマに悲劇をもたらすことになる。
スティリコには蛮族の支持者が多かったため、側近オリンピウスは、自分の意見を持たない皇帝ホノリウスに、ローマのスティリコ派の蛮族を次々に粛清させ、蛮族は帝国の敵だと植え付けた。
ノリクム属州
蛮族の粛清は残忍極まりない行為だった。生存者の中には帝国軍を脱走した何千人もの蛮族の兵士もいた。彼らは一つの場所に集まった。
領土の約束は破られた上に度を越した戒めを受けて、西ゴート族は会議でローマ(400年に西ゴート族がイタリア半島北部に侵攻してきたため、皇帝ホノリウスはミラノの宮殿を捨てて402年ラヴェンナに首都を移した。都市ローマは帝国の首都ではないものの、『永遠の都』としての象徴的地位にはあった。)を略奪しローマ人を人質に皇帝に交渉に応じさせることを決めた。
このころ帝国軍はライン川から侵入する蛮族に備え( 406年、ゲルマン民族のうちヴァンダル族・アラン族・スエビ族がライン川を越えて西ローマ帝国のガリアに侵入し略奪を行い、イベリア半島へ向かった。)、ローマ軍は地方に分散していてローマは手薄だったことをアラリック1世は把握していた。
アラリック1世は街道を封鎖してローマへの物資の流通を断絶した。ローマは外部による制圧の苦しみを味わった。800年ぶりの受難だった。
ラヴェンナ 皇帝宮殿
アラリック1世の要求はノリクムなど属州4つの領土だったが、ラヴェンナの皇帝宮殿ではオリンピウスが反対したため皇帝ホノリウスは交渉を拒否した。
ローマ近郊 アラリック陣営
西ゴート軍に包囲されたローマは糧食が尽き飢餓に苦しんだ。元老院は止むを得ず和平交渉し、巨額の賠償金を支払うことで西ゴート族の包囲を解くことを約束させた。
西ゴート軍は無血でローマの財宝を手に入れた。次に領土を狙うアラリック1世は、届けられた財宝では足りないと、3日間だけローマに食料を通す代わりに、皇帝に領地を渡す約束を守るなら撤退すると伝えるよう使者として訪れたアッタルスに命じる。
西ゴート軍の要求は譲歩して属州ノリクムのみだったが、オリンピウスは執拗に反対する。ローマ軍には、かつてアラリック1世と族長の座を争い、家族を殺されたサラス将軍がいた。
瀕死のローマを救うため皇帝ホノリウスは属州ノリクムを西ゴートに渡すことを決める。
409年 ローマ
アッタルスは西ゴート族の包囲を解いたとして一躍有名になる。誰もが平和協定に期待した。
アラリック1世は誠意を示すため、協定締結を待たずに、トスカーナに撤退した。
オリンピウスは皇帝ホノリウスに、この隙きに地方にいるローマ兵を呼び戻して増強することを勧め、6万の援軍がローマに向かった。だが、彼らは街道を通るという過ちを犯した。
イタリア トスカーナ地方 アラリック陣営
トスカーナに撤退した西ゴート族は、皇帝の差し金でローマに援軍が向かっていることに気づいたアタウルフ1世からローマの援軍は奇襲を受け、ローマ兵は100人しか生き残らなかった。
皇帝ホノリウスは、自分の名誉が汚されたと嘆き、オリンピウスを追放した。
アタウルフは、交渉の結果がこのザマかとアラリック1世を罵り、ローマを滅ぼすと怒るが、アラリック1世は黄金だけで十分だとなだめる。
しかし西ゴートの兵はもはや黄金より報復を望んでいた。アラリック1世は目的は領土で、報復ではなく、交渉で安息を得ることの重要性を説くが、アタウルフは、領土を得てもゴート族は卑下され、平等には扱われない。皇帝の2度の仕打ちを許してはならないと反論する。
アラリック1世は、ローマに戻ることにするが、報復ではなく、ローマが皇帝を捨てるよう頭を使う。
409年10月 ローマ
アラリック1世はローマに戻り、元老院を集めた。元老院は、和平を結んだはずのアラリック1世がなぜ戻ってきたのか分からなかった。皇帝が和平を破ることは想像もしていなかった。
皇帝が平和協定を無視して裏切ったから、西ゴート族は報復をすると熱り立っているが、自分は分別があるから交渉で解決したい。それには、この中から、自分と交渉する新しい皇帝、市民のために約束を果たす皇帝を選んで、己の手でローマの運命を決めろ。アラリックはそう言ってアッタルスを指名した。
409年冬
元老院がアッタルスを新皇帝に据えるという、ローマ史上最も異様な事態が起きた。
アッタルスに領土を与える力はないが、ホノリウスは権威が命の男だから、新皇帝アッタルスは目障りになるため、新皇帝の排除を条件に領土を得るというアラリック1世の作戦だった。
一方皇帝側は、側近の知恵でアラリックの戦法をそのままやり返す作戦に出た。新皇帝アッタルスの無力が露呈し、民が飢え、アッタルスの支持が無くなるまで待つ。
5世紀、帝国は穀物の多くを北アフリカから運び入れていた。ホノリウスはその供給路を封鎖した。ローマは数週間で再び飢餓に陥り、アッタルスの人気は失墜し、ローマの秩序は音を立てて崩れ始め、アラリック1世の作戦は失敗した。西ゴート族の不満も限界に達していた。
アラリック1世は皇帝に直接交渉を申し込み、ホノリウスはそれを承諾したが、かつてアラリック1世と族長の座を争い家族を殺されたサラス将軍は私情で反対した。ホノリウス側は領土を与えるのはやむを得ないと考えていた。
410年夏
ラヴェンナへの街道
対立すること2年、蛮族の長と帝国の皇帝は和解の日を迎えるはずだった。
アラリック1世は少人数でホノリウスの宮殿へ向かう途中、サラス将軍率いるローマ軍に奇襲攻撃された。サラス将軍の独断で決行したことだが、結果的に西ゴート族はまたしても皇帝から裏切られる形となった。
410年8月24日
ローマの城門に到着して約2年、アラリック1世ははついに占領を決意した。
資料によると城門を開いたのはローマの民だという。だが民が望んだ平和は訪れなかった。(ローマ略奪(帝国を象徴する多くの公共施設が略奪にあい、アウグストゥス廟やハドリアヌス廟など歴代皇帝の墓所も暴かれ遺灰壺も破壊された。ラテラノ宮殿からはコンスタンティヌス1世が寄贈した銀製の聖体容器が奪われた。動かすことのできる価値あるものは市内全域から持ち去られたが、建物自体が大きく破壊されたのはフォロ・ロマーノの元老院議場付近とサラリア門付近に限定されていた。サラリア門近くのサッルスティウス庭園は破壊され二度と再建されることはなかった。フォロ・ロマーノのバシリカ・アエミリアおよびバシリカ・ユリアもこの時焼け落ちた。破壊を逃れたのは教会関係の施設だけだった。
住民の被害も大きく、皇帝の妹のガッラ・プラキディアを含め多くが捕虜となり、その多くは奴隷として売り飛ばされたり、強姦・虐殺された。身代金を払って救われたのはごく僅かだった。難を逃れた住民は、遠くアフリカ属州に落ち延びた。))
3日間の略奪の後、西ゴート族は南に向かった。
この場に及んで皇帝ホノリウスは、自分の名前が歴史に残るかを気にしていた。その治世はその後13年続いた。子に恵まれずローマの再建に貢献できぬまま世を去った。
アラリック1世は占領の4ヶ月後に死亡。最後まで領土交渉の失敗を悔やんでいたという。アタウルフが跡を継ぎ、4年後ホノリウスの妹ガッラ・プラキディアと結婚。政略的と言われたが愛情がなかった証拠はない。
アラリック1世によるローマの陥落は帝国滅亡の序章となる。皇帝ホノリウスの稚拙な指揮は領土縮小と財政難を招き国を追い詰めた。
476年、最後の皇帝が失脚し西ローマ帝国は滅亡。その後東ローマ帝国だけが存続することになる。
栄華を極めた古代ローマ。その絶大な力と驚異の知恵、残虐性、異常性、そして信念は、すべて消え去った。
補足メモ
スティリコ
軍人。テオドシウス1世のもとで護衛隊長となり、西ゴート族からの国土防衛を任された。テオドシウス1世は、姪のセレーナを自分の養女とした上で、スティリコと結婚させた。392年、ウァレンティニアヌス2世が暗殺されるとローマとの同盟を結んだ西ゴート族の族長アラリック(後のアラリック1世)とともにフリギドゥスの戦いで勝利を収め、高位の軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の一人となった。テオドシウス1世が東西ローマを統一するとローマ軍の総司令官(マギステル・ウトリウスクァエ・ミリタエ)となり、翌395年にテオドシウス1世が死去すると帝国の東半分は長男アルカディウス、西半分は次男ホノリウスに移譲され、彼は西ローマ帝国の皇帝となったホノリウスの後見人を務めた。
西ゴート族
410年のローマ略奪後の西ゴート族
カラブリアへと南下していったアラリックは、アフリカ属州をイタリアを掌中に収めるための要石としてみなし、アフリカ属州を征服しようとした。しかし、嵐がアラリックの艦隊を襲い、船舶はおろか多くの兵士を奪い取った。まもなくアラリックは恐らくは熱病と思われる病に倒れコゼンツァに没した。
アラリック1世の義弟アタウルフが後を継いだ。食料に困窮した西ゴート族は412年にティレニア海沿岸を北上し、アルプス山脈を越えてガリアに乱入た。ローマ略奪 (410年)の際捕虜となったホノリウスの姉妹ガッラ・プラキディアはが仲介し、皇帝ホノリウスとの交渉に入った。
西ゴート族はガリアで食料と定住地を保証される代償として、ガッラ・プラキディアを解放し、また簒奪者であるヨウィヌスと戦うことが取り決められた。
アタウルフは翌413年にウァレンティア(現・ヴァランス)でヨウィヌスを攻撃してこれを捕らえ、ホノリウスの総督に引き渡した。しかし西ゴート族側がガッラ・プラキディアの引き渡しを拒んだため、協約は無に帰した。ホノリウスは食料の引き渡しをとりやめ、困窮した西ゴート族が南ガリアを去るだろうと見込んでいた。しかし西ゴート族は、マッシリア(現・マルセイユ)攻防戦でアタウルフが負傷しながらも、ナルボ(現・ナルボンヌ)、トロサ(現・トゥールーズ)、ブルディガラ(現・ボルドー)を征服した。414年、アタウルフはガッラ・プラキディアとローマ式の結婚をして、ゴート人やローマ人を驚かせた。この結婚により、ローマ帝国をゴート族のものにしようという遺志がないこと、むしろゴート族の力で帝国を刷新しようという王の意志が示された。オロシウスによれば、この意志は王妃の説得によるものだったという。同年テオドシウスという名の息子が生まれたが、この子は生後間もなく死去した。
プラキディアはマギステル・ミリトゥムであったコンスタンティウス3世(406年~416年)の許嫁であったため、この結婚を機にコンスタンティウスはアタウルフを攻撃し始めた。アルルを根拠地に南ガリアの港湾を封鎖されたため、アタウルフは先王アラリックに倣い、プリスクス・アッタルスの呼びかけに応える形でローマ皇帝に即位を宣言した。イタリア半島南端に拠点をもつことには成功した。
しかし配下の西ゴート族の困窮が甚だしかったため、アタウルフは415年にスペインに向けてガリアを去らざるを得なくなった。しかし412年にアタウルフが処刑したサルスの部下の復讐にあい、同年晩夏にバルキオ(現・バルセロナ)で暗殺された。
415年、西ゴート族と新王アタウルフは、コンスタンティウス3世率いるローマ軍に押されてイベリア半島に移動した。同年、アタウルフはバルキノで復讐にあい、暗殺された。次にシゲリックは有力貴族の支持を得て王位を得た。先代とは逆に反ローマ帝国政策を志向し、遠征を企図した。一方で先代アタウルフの息子たちに死刑判決を下した。しかし在位わずか7日でシゲリックは暗殺された。
シゲリックの次に王位に就いたワリアは、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸に渡ろうとした。アフリカへの移動は既にアラリック1世が企図していたことであった。そのため416年にワリアはローマと和平条約を結び、60万モディイの穀物を受け取る代わりに、西ローマ皇帝ホノリウスの姉妹でアタウルフの未亡人であるガッラ・プラキディアの身柄を返還すること、またイベリア半島にあってローマと敵対するヴァンダル族、アラン人、スエビ族と戦うことになった。
条約に従ってワリアはガッラ・プラキディアをローマに返還し、シリンジイ系ヴァンダル族を攻撃してほとんど撃滅した。生き残った者はハスディンジイ系ヴァンダル族の許に逃げて保護を受けた。次いで西ゴート族はアラン人を攻撃してこれをほとんど撃滅し、残存勢力はハスディンジイ系のヴァンダル族に合流した。
西ゴート王国
415年にワリア王は南ガリアのトロサ(トゥールーズ)を首都と定め西ゴート王国が建国され、イベリア半島を征服していたヴァンダル族、スエビ族らを討ち、褒賞として418年にホノリウス帝から正式に属州アクイタニア(アキテーヌ)を与えられた。
418年、西ゴート族はガリアに呼び戻され、ガリア・アクィタニアやノウェンポプラナ、ガリア・ナルボネンシスに定住する許可を得た。その都にはトロサが定められた。ゴート族の移住は概ね平和裏に行われ、先住のローマ人が持つ土地所有権をめぐる問題は、土地所有権と徴税権を分離することで解決され、租税の三分の二が軍事費として西ゴート族に、三分の一が内政のためローマ人に収められることが決められた。また土地の三分の一はゴート族の客人の居住地として明け渡すこととされた。
新たな王国を整備している途上の418年、ワリアはトロサで急死した。約40年後、ワリアの孫(甥とも。母がワリアの娘または姉妹)リキメルは西ローマ帝国のマギステル・ミリトゥムに就任してこれを牛耳ることになる。