ベン・ハー(2016)
『ベン・ハー』(Ben-Hur)は、キース・クラークとジョン・リドリー脚本、ティムール・ベクマンベトフ監督による2016年のアメリカ合衆国の叙事詩的歴史ドラマ・アクション映画である。
ルー・ウォーレスの1880年の小説『ベン・ハー』を原作としており、1907年のサイレント映画(英語版)、1925年のサイレント映画、アカデミー賞を受賞した1959年の映画、2003年のアニメ映画に続いて5度目の映画化で、小説の「再翻案」、「再想像」、「新解釈」と称されている。
主要撮影は2015年2月2日にイタリアのローマで始まり、2015年8月に完了した。2016年、北米、イギリス、アイルランドで公開されたが日本での公開は見送られ、Blu-ray DiscとDVDの発売のみとなっている。
ベン・ハー(2016)
プロローグ
1959年製作の傑作映画をリメイクしたアクションアドベンチャー大作。
アカデミー賞を受賞した1959年の映画の、映画史に残る伝説の戦車競走シーンなど、壮大かつ壮絶な復讐劇がさらにスリリングに。CGを極力使わず、ほぼ完全実写にて再現した超ド級アクションに注目。
33年、イェルサレム
キリスト降誕の時代
ローマ帝国ははるか彼方まで領土を拡大
流血によって栄え
恐怖政治が人民を支配した。
帝国はすべてを奪い去る
流血の見世物へと民衆をいざない
失ったものを忘れさせる
帝国が招くのは敵意
そして復讐心のみ
『ベン・ハー』ブルーレイ&DVD 予告編
プロット
イェルサレムの名家に生まれたベン・ハー(ジャック・ヒューストン)は、義兄弟であったメッサラ(トビー・ケベル)の裏切りにより、奴隷としてガレー船に送られる。しかし、大海原を進む途中、突然の襲撃により船が転覆。鎖に足をつながれたまま船から放り出されるが、アラブの族長イルデリム(モーガン・フリーマン)に命を救われ、メッサラへの復讐を誓う。数年ぶりに故郷に戻ったベン・ハーは戦車競争に出場する機会をつかみ、ついに競技場でメッサラとの宿命の対決に挑む。
十字架上のキリスト(ロドリゴ・サントロ)の最後の言葉を聞いたベン・ハーは・・・。
登場人物
- ジュダ・ベン・ハー
イェルサレムの名家に生まれ – ジャック・ヒューストン - 族長イルデリム
豪商。ベン・ハーの命を救ったことがきっかけで戦車競走でメッサラを代表とするローマ軍に – モーガン・フリーマン - ティルザ・ベン・ハー
ベン・ハーの妹 – ソフィア・ブラック=デリア - ナオミ・ベン・ハー
ベン・ハーの母 – アイェレット・ゾラー - ジェスタス
ローマ軍に家族を殺害されたゼロテ派の少年。大怪我をしてジュダに介抱されるが・・・。 – モイセス・アリアス - ドルーサス
メッサラの副官。 – マーワン・ケンザリ - クインタス
ジュダを救済の道で送るメサラの裏切りに関与しているローマの船長 – ジェームズ・コスモ
- メッサラ
ローマ人の孤児でベン・ハー家の養子としてイェルサレムで過ごすが・・・。 – トビー・ケベル - ポンティウス・ピラト
ローマ帝国の第5代ユダヤ属州総督 – ピルー・アスベック - ナザレのイエス
敵を愛せとイェルサレムのそばのゴルゴタの丘で、ローマ帝国の法に従って十字架刑に処された – ロドリゴ・サントロ - サイモニデス
ハー家の使用人。エスターの父。 – ハルク・ビルギナー - エスター
サイモニデスの娘。ベン・ハー家の使用人。ベン・ハーと愛し合い結婚する – ナザニン・ボニアディ
レビュー (ネタバレあり)
ベン・ハー(1959)はルー・ウォーレスの1880年の小説『ベン・ハー』を忠実に映像化し、アカデミー賞の史上最多受賞作品の一つとなった名作で、半世紀以上たった今もなお人気があり、繰り返し観る人も多い歴史映画の代表作だ。
本作ベン・ハー(2016)まで、57年ある。その間に新たな歴史的発見、民族闘争、めまぐるしい技術の進化などあり、あの「名作」をどうリメイクするのか楽しみだった。
本作ベン・ハー(2016)は、現代に生きる、現代の人間感情にとてもわかりやすく設定されている。
義弟のメッサラはローマ人で、祖父はジュリアス・シーザーを裏切り磔刑となっっため孤児となり、ハー家の養子となっていた。
メッサラはジュダ(ベン・ハー)の妹ティルザと愛し合っていたが、母ナオミはそれを認めず、メッサラに冷たく当たっていた。
このころメッサラは心優しい青年として描か荒れている。ナオミを苦しめてまで自分の思いを遂げることはせず、お金と地位を得て一人前になって戻ってくるために、そして自分の居場所を見つけるために、宗教も違う本当の家族ではないハー家を出て、傭兵となるためローマへ向かった。
戦闘に明け暮れる過酷な毎日のなかで、命がけで成果を上げて戻ってきたメッサラと、ジュダとナオミとティルザらハー家との再会を喜びあった。
この頃ローマ帝国の圧政によってユダヤ人の抵抗組織・ゼロテ派の暴力行為が多発していた。暴力行為では解決できないと静観する豪族のジュダは、ゼロテ派からも責められた。
平和を願うジュダだったが、実際に圧政に苦しむのは庶民で、豪族のハー家は豊かな暮らしを続けられていた。
一方メッサラはイェルサレムに戻ったことでハー家を守れると信じていた。
しかし、ゼロテ派に加わる者の名前を聞いてもジュダは答えなかった。総督のピラトに何かあっては、ユダヤ人への報復も、責任者のメッサラ自身の命も危うく、メッサラはジュダに双方の敵であるゼロテ派を取り締まろうと考えていたが、ジュダが自分の願いよりもゼロテ派の肩を持ったことはショックだった。
ジュダは、ゼロテ派の行為は軽蔑しても、同じユダヤ人をローマ人に売るような行為はできなかったのであろう。この時点でも、ジュダよりもメッサラの方が現実的で相手を思いやる気持ちがある好青年だ。
ジュダは、ローマ軍に家族を殺され、復讐を誓ってゼロテ派に加わり、打倒ローマを掲げるまだ幼い少年の傷の手当はしても、自分たち家族が平和に暮らせれば満足で、根本的な解決に目を向けていなかったのだ。
かと言って、絶大な軍事力を持つローマ帝国相手に何が出来たかと言えば、話し合いをしたところで何も解決できなかっただろう。被征服者は服従しか許されない時代だったのだ。
ジュダは自ら少年をかばって罪を自白し、奴隷としてガレー船に送られた。母と妹も捕まった。ベン・ハー(1959)と違い、ジュダのガレー船送りはメッサラの裏切りとは言えない形になっている。
例えメッサラが自分の命を捨てる覚悟でハー家を守ったとしても、あの状況下でローマ軍総督ピラトが許すはずもなく、ジュダが復讐に燃えるのはメッサラではなくローマ帝国なのである。
しかしジュダは、メッサラへの復讐心のみで5年もの過酷な奴隷生活を生き抜く。
戦車競走のシーンは、ベン・ハー(1959)の戦車競走の名場面に負けず劣らず圧巻だ。ベン・ハー(1959)の時の馬車の工作など史実にありえないところは修正し、実に見事にリアリティある戦闘が描かれている。
十字架上のキリストの最後の言葉を聞いたジュダは、やっと自分の過ちに気づいたのだろう。
いつもそばで優しかったメッサラを思い出し、許し合う上で、それでも、ローマ人であるメッサラと、ユダヤ人ジュダが昔のように打ち解けるためには、メッサラが片足を失うことでやっとバランスが保てたのかもしれない。
紀元前後 戦車競走参加国の時代背景
戦車競走参加国は、ローマ帝国の属州であるペルシア、ギリシア、アラビア、シリア、エチオピア、エジプト、ユダヤと、ローマになっている。
ペルシア
アルサケス朝パルテア第16代王フラーテス5世(在位:紀元前2年〜紀元4年)はアルメニア王国でその王アリオヴァルザネス即位に伴う混乱に乗じて反乱を扇動しアルメニア王国への影響力を復活させようとしたが、これはローマを刺激した。ローマはこの問題に介入し、ガイウス・カエサルを派遣してパルティアと交渉を持った。そしてローマの圧力の前にフラーテス5世は折れ、アルメニア王国がローマの勢力範囲であることを再確認する事となった。
ギリシア
紀元前31年、アクティウムの海戦の勝利でアウグストゥスがローマの覇権を掴むと、ギリシャ本土を属州アカエアを制定した。各ポリスは属州内の地方都市として存続した。
アラビア
紀元前26年-25年、ローマ帝国によるアラビア遠征が続き、1世紀後半から2世紀頃、ローマ帝国の迫害により追われたユダヤ人がアラビア半島に移住しはじめた。
2世紀に、ヨルダン川周辺がローマ帝国のアラビア属州となり、アラビア・ペトラエアと呼ばれた。
シリア
シリアは、紀元前64年にグナエウス・ポンペイウスがセレウコス朝を倒してローマに編入し、紀元前1世紀にシリア地方にシリア属州を設立した。
エチオピア
紀元前5世紀から10世紀にかけて、現エチオピア地域ではアクスム王国が交易国として繁栄していた。ローマ帝国の属州ではなかった。
エジプト
紀元前332年にアレクサンドロス3世に征服され、その後ギリシア系のプトレマイオス朝が成立していたが、紀元前30年にローマ帝国に滅ぼされ、属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。アラビア属州と隣接する。
ユダヤ
現代のパレスチナとイスラエルにあたる地区に、紀元前6世紀に存在したユダ王国の後、新バビロニア・アケメネス朝・セレウコス朝およびプトレマイオス朝・ハスモン朝の支配を受けてきた。第三次ミトリダテス戦争におけるローマの勝利(紀元前63年)以降、ローマはこの地域に干渉を始め、紀元前1世紀にハスモン朝がローマの保護国(クリエンテス)となり、やがてローマ帝国の属州となった。
ゼロテ派
熱心党は、イエス時代に存在したユダヤ教の政治的宗教集団である。ゼロテ派とも呼称される。
紀元元年前後のユダヤ民族は、ハスモン朝といった一時的な独立の時期もあるが、ユダ王国崩壊以後500年以上被支配の状態にあった。そうした状況の中で、多くの人々はユダヤ人民族国家の建国をほとんど諦め、被支配を前提に、その中でどのように神と係わりを持つか、民族を保つかといった妥協的な考えに向かわざるを得なかった。しかし一方で、ユダヤ民族独立を未だ現実的に切望する集団もいた。熱心党は、そうした集団の内、手段を厭わず暴力行為を以ってしてでも目的を遂行しようという当時の抵抗組織である。有名なのがシカリ派などである。シカリ派は聖書では短剣を持った4000人の男と書かれている。ラテン語のシーカーリイーに由来しておりシーカは短剣を意味し、(短剣を使うもの)という意味がある。