14.北方民族の活動と中国の分裂
14.北方民族の活動と中国の分裂
1. 三国から晋の統一
後漢末の混乱のなかで、220年、曹操の子曹丕が後漢の皇帝より位をゆずり受けて、洛陽を都に魏(曹魏)を建国した。続いて四川地方には劉備が蜀(蜀漢)を、江南地方には孫権が呉(孫呉)を建国し、三国が分立する三国時代となった。その後、魏から帝位を奪った将軍司馬炎が晋(西晋)を建国し、280年に中国の再統一に成功した。しかし、一族の争い(八王の乱)に乗じて周辺民族が侵入し、その結果316年、晋は匈奴によって倒された。
2. 五胡の侵入と東晋の成立
晋の滅亡後、一族の司馬睿は建康を都に江南地方に東晋を建国した。漢人は周辺民族の侵入による華北の混乱を避け、江南地方に移住するようになった。一方、華北は匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の五胡といわれる遊牧諸民族が侵入し、五胡十六国時代といわれる混乱した状況となった。
3. 北朝と南朝の対立
江南の東晋はその武将に倒され、宋・斉・梁・陳という短命な4王朝(南朝)が続いた。一方、華北の混乱は、鮮卑族の拓跋氏の建てた北魏により439年に統一され(北朝)、これにより南北朝時代(中国)が始まった。北魏は第6代孝文帝のときに都を平城から洛陽に移し、漢化政策を徹底した。のち、北魏は東魏・西魏に分裂し、西魏は北周に、東魏は北斉にひきつがれたが、北斉は北周に併合された。その後、北周を奪った外戚の楊堅が隋(王朝)を建国し、589年には南朝の陳を滅ぼして約1世紀半の間、南北に分裂していた中国を統一した。
4. 魏晋南北朝の社会と文化
後漢末の混乱のなかで、豪族は勢力を拡張した。魏の曹丕は豪族勢力の抑制を目的とした九品中正という官吏任用法を施行したが、かえって豪族の上級官職独占による門閥貴族の形成につながった。豪族の第土地所有と農民の流民化・隷属民化は国家が直接支配する土地と人民を減少させることを意味し、財力や軍事力の破綻をまねくものであった。そこで、各王朝は土地所有制限や納税者である農民の確保に努めた。魏では屯田制が実施され、北魏の孝文帝は農地や税収を確保するため均田制や三長制を実施した。しかし、奴婢・耕牛も給田の対象となったため豪族に有利であった。また、西魏では兵農一致の兵制(府兵制)が実施された。
この時代はうちつづく戦乱で社会不安が増大した。こうした状況を反映して、儒教の権威は低下し、老荘思想を中心に俗世間から離れて論議にふける、清談が流行した。仏教の普及には西域から渡来し華北で布教した仏図澄や、仏典を漢訳した鳩摩羅什の功績が大きく、東晋の僧法顕も直接インドに渡り仏教をおさめた。また、仏教は国家の保護を受け大石窟寺院の造営が盛んに行われた。仏教の普及に刺激されて、この頃道教が成立した。これは古くからの民間信仰と神仙思想に道家の説を取り入れてできたもので、寇謙之は教団をつくり、仏教に対抗して勢力を伸ばした。
5. 日本の国家形成
3世紀の日本は多くの小国に分かれていたが、そのなかで有力であった邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使節をおくり「親魏倭王」の称号を与えられた。4世紀に入るとヤマト政権による統一が進み、5世紀には倭国の王は中国王朝の後ろ盾を得ようと、たびたび南朝に使いをおくり、官職・称号をもとめた。