2.古代オリエント世界
- 1. 都市国家の成立期
- 2. 民族移動・抗争期
- 3. オリエント世界の統一期
2.古代オリエント世界
1. 都市国家の成立期
パレスチナ・シリアからメソポタミアにいたる地域は「肥沃な三日月地帯」といわれる豊かな地域である。メソポタミア南部には紀元前2700年頃までにシュメール人(民族系統不明)がウル(Ur)、ウルクなどの数多くの都市国家群を建設した。
しかし、紀元前24世紀頃、セム語系のアッカド人がシュメール人にかわってこの地を支配し、広大な領域国家をつくった。しかしその崩壊後、セム語系アムル人がバビロン第1王朝を建国した。この王国は紀元前18世紀頃ハンムラビ王のとき、バビロンを都に、全メソポタミアを統一した。王は法典の整備をおこない、復讐法と身分の差を特徴とするハンムラビ法典を発布した。
一方、エジプトでも「エジプトはナイルのたまもの」といわれるように、ナイル川にはぐくまれて高度な文明を築いた。紀元前27世紀ごろに成立した古王国は、都をメンフィスにおき、ファラオとよばれる王が神として君臨した。また、この時代にはピラミッドが多く建造された。
2. 民族移動・抗争期
インド=ヨーロッパ語系の民族が富を求めてメソポタミアに侵入をくりかえし、各地に王国を建てた。
紀元前17世紀中頃にアナトリア高原(小アジア)に建国されたヒッタイト王国は鉄製の武器を使用し、バビロン第1王朝を滅ぼした。そのほか、バビロニアにはカッシート王国(民族系統不明)が、北部にはミタンニ王国が建国された。
100年間にわたるヒクソスの支配(エジプト第2中間期)から脱したエジプト新王国はシリア方面に進出し、ラメセス2世のときヒッタイトと激しくこの地の覇を競った(カデシュの戦い)。
紀元前14世紀のアメンホテプ4世はアトン信仰を強制し、自らイクナートン(アトンに愛されるもの)と名乗り、信仰改革を断行した。これは王の死によって一代限りで終わったが、この改革の影響で古い伝統にとらわれない写実的なアマルナ美術が生み出された。しかしヒッタイト王国・エジプト新王国とも、ギリシア・エーゲ海方面より侵入した「海の民」により衰退していった。
メソポタミアではシュメール人がつくった楔形文字が多くの民族に使用され、粘土板に刻まれた。また六十進法や、太陰暦とそれを補正した太陰太陽暦の誕生など、天文・暦法など実用の学問が発達した。エジプトは太陽神ラーを中心とする多神教で、霊魂不滅と死後の世界を信じてミイラをつくり、「死者の書」を残した。文字は碑文や墓室などに刻まれる神聖文字(ヒエログリフ)と一種の紙であるパピルスに書かれる民用文字(デモティック)とがあった。メソポタミアと同様に実用の学問が発達し、なかでも太陽暦はのちにローマで採用されてユリウス暦となった。
これらの大国の勢力が後退したあと、セム語系の小民族が活発な活動を展開した。アラム人はダマスクスを拠点に内陸貿易で活躍した。
フェニキア人はシドン・ティルスなどの都市国家をつくって地中海貿易で活躍し、カルタゴなど多くの植民市をたてた。彼らの文字はギリシアに伝わり、アルファベットのもとになった。
ヘブライ人は王国を建設し、ダヴィデ王・ソロモン王のもとで繁栄したが、その後分裂し、南のユダ王国は新バビロニア王国に滅ぼされ、住民の多くがその都であるバビロンに連れ去られた。これをバビロン捕囚という。
ヘブライ人は苦難のなかでも唯一神ヤハウェへの信仰を固く守り、やがてペルシアにより解放され帰国すると、神殿を再興しユダヤ教を確立した。その経典は、のちのキリスト教の教典ともなって「旧約聖書」とよばれ、ヨーロッパの人々の思想・芸術活動の大きな源泉となった。
3. オリエント世界の統一期
その後、新バビロニア・リディア・メディア・エジプトの4大王国に分立することになった。メディアから独立したアケメネス朝は、紀元前525年、カンビュセス2世のときオリエントを統一した。その後、ダレイオス1世が東はインダス川から西はエーゲ海にいたる大帝国を完成させた。彼はこの大帝国を州に分割し、各州に知事(サトラップ)をおくとともに、彼らを監察するため「王の目・王の耳」とよばれる監察官を巡回させて中央集権をはかり、領土内の諸民族の文化を統合した。彼らが信仰した宗教はゾロアスター教である。この宗教は世界を善(光明)の神と、悪(暗黒)の神の闘争であると説き、人々は最後の審判により楽園に入ることができるとした。