25.内陸アジア世界の変遷
25.内陸アジア世界の変遷
![内陸アジア](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2017/05/dbf583b1c7d2c56b174b3c6fc62aa21f.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
1. 草原の遊牧民の国家
![騎馬遊牧民とオアシス民の活躍 ©世界の歴史まっぷ](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/02/593ac497e543e21c6de3453be1ef34ef.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
![大月氏国 冒頓単于 スキタイと匈奴 漢の興起 月氏 バクトリア王国 パルティア 紀元前2世紀後半の世界地図](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/02/9cef7ff31ad404b3b59931a7f680fc7c.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
南ロシア草原地帯に、羊・牛・馬などの家畜を生活の糧として、草や水を求めて移動する遊牧民が生活していた。彼らはしだいに馬具を利用して馬に乗り、弓矢などの武器で攻撃するという騎馬遊牧民となっていった。騎馬の技術は、遊牧民に軍事面での圧倒的な優位性を与えるものであった。少年時から騎乗や弓の射手としての訓練を積んだ騎馬遊牧民は、その機動性に優れた軍事力を発揮して、しばしば定住農耕地帯に侵入した。紀元前6世紀頃、騎馬遊牧民による史上初の遊牧国家スキタイが出現し、武具・馬具・鳥獣文様に特色がある独特な騎馬文化をつくりあげた。それにつづいて内陸アジア東部でも騎馬遊牧民の活動が活発となった。紀元前4世紀末にはモンゴル高原に匈奴とよばれる強力な遊牧国家が成立し、紀元前2世紀冒頓単于の時に全盛を誇った。匈奴は前漢の武帝(漢)の攻勢によりゴビ砂漠以北に退き、紀元前1世紀には東西に分裂し、さらに1世紀中頃に南北に分裂した。
南匈奴は後漢に服し、北匈奴は一時大きな勢力をふるったが、後漢の攻撃を受け、一部は西方に移動した。匈奴の崩壊後、鮮卑がモンゴル高原の支配者となり、3世紀中頃に中国北部に移住し、4世紀末に北魏を建国した。鮮卑が南下したあとのモンゴル高原ではモンゴル系の遊牧民柔然が活躍し、5世紀には北魏に対抗した。
2. オアシスの定住民
![中央アジアのトルコ化とイスラーム化の進展](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2017/03/34035e09b14c3bcd4c7f11dd92e777d7.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
中央アジア南部のオアシス地帯では、農業や都市の発達に限界があったので、隊商民による中継貿易が生活の手段となった。オアシスは定住農耕民の生活の場であり、古くからイラン系のソグド商人がサマルカンドを中心に中継貿易で活躍していた。オアシス諸都市がみずから連合して強力な統一国家を形成することは、きわめてまれであった。パミール高原以西のオアシス地帯に、初めて強力な国家が形成されたのは、大月氏の支配を脱してできたクシャーナ朝であった。オアシス諸都市は、北方の遊牧民・西方の諸勢力・東方の中国人という3方面からの異民族の侵略に常に直面してきた。中国人による西域経営は前漢に始まるが、中国のこの地への政治的進出は、751年のタラス河畔の戦いの敗北をさかいとして一応終止符が打たれた。
3. 中央アジア(内陸アジア)のオアシス都市
![漢代のオアシス都市国家地図 オアシス都市国家 亀茲 漢代のオアシス都市国家地図](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/02/b9325c94193bac643b5aa7b56eddca79.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
- 西トルキスタン サマルカンド
- 東トルキスタン 亀茲(クチャ)、カラシャール(焉耆)、アクス(姑墨)、カシュガル(疏勒)、コータン(于闐)など
- 敦煌
4. 中央アジアのトルコ化とイスラーム化の進展
![トルコ民族の発展 ©世界の歴史まっぷ](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/02/2a14459b7fdd003a6c80003a6c511e3f.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
![唐文化の波及と東アジア諸国 カルルク 唐(王朝) 唐の建国と発展 回鶻 突厥・ウイグルとソグド人 7世紀おわりの世界地図](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2020/06/553470c2fef6bfdd9b1dfa6cfe5e0264.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
![ブワイフ朝 イスラーム帝国の分裂 イスラーム勢力の西進 サーマーン朝 ファーティマ朝 10世紀後半のイスラーム世界地図](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/02/2f5630973b8bfd2a0333c931a65ce7ff.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
![ムラービト朝 ルーム・セルジューク朝 ムラービト朝 ガズナ朝 11世紀後半のイスラーム世界地図](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/12/cb18487f78439ecfb1b065c6f134217d.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
![西方イスラーム世界 バグダードからカイロへ ホラズム・シャー朝 ゴール朝 ムワッヒド朝 アイユーブ朝 12世紀末のイスラーム世界地図](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/02/32b4f3323a56a4b78ac6e8297c9078e7.png?lossy=1&strip=1&webp=1)
モンゴル高原では、6世紀中頃トルコ系の突厥がおこり、最盛期には東は大興安嶺から西はソグディアナ地方まで領有した。のち東西に分かれ、744年トルコ系のウイグル人に滅ぼされた。ウイグル人は8世紀に強盛となったが、9世紀中頃、遊牧民キルギスの攻撃を受けて四散した。
内陸アジアのトルコ化を決定的にしたのは、このウイグル人で、特に天山ウイグル人は西方に移動してオアシス諸国を征服し、それまでイラン系住民の住居であった中央アジアをトルコ化し、トルキスタン(「トルコ人の地」の意)とよぶきっかけをつくった。
トルキスタンはパミール高原をさかいにして大きく東西に分けられる。
西トルキスタンでは、イスラーム化以前にはソグド人を中心にゾロアスター教が信仰されていた。
それに対し東トルキスタンはウイグル人を中心にマニ教や仏教の信仰が盛んであった。
イラン系のサーマーン朝が西トルキスタンに建国されると、この政権のものでトルコ人のイスラーム教への改宗が著しく進んだ。トルコ人のイスラーム化は10世紀にトルコ系イスラーム王朝であるカラハン朝がサーマーン朝を滅ぼし、東・西トルキスタンを合わせることによってさらに進展した。イスラーム化したトルコ人は、その後も西方への移住を続け、セルジューク朝やオスマン帝国を建国した。
![内陸アジア世界の変遷 25.内陸アジア世界の変遷流れ図](https://b1828211.smushcdn.com/1828211/wp-content/uploads/2018/02/b5847b67c09b8c497ca8e1154e998347.png?lossy=1&strip=1&webp=1)