李朝 西夏遠征 甘州ウイグル王国 国際関係の変化 西夏の成立 遼の成立 宋の統一 遼朝 天山ウイグル王国 西夏 カラハン朝 北宋 11世紀の東アジア地図
11世紀の東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

カラハン朝


カルルク

西遼

ホラズム・シャー朝

カラハン朝 A.D.840〜A.D.1212

かつて中央アジアに存在したイスラム王朝。中央アジアのテュルク(トルコ)系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている。

  • 960年:イスラームへの集団改宗
  • 11世紀半ば:東西分裂
  • 12世紀:西遼(カラ・キタイ)へ従属
  • 1210年:東カラハン朝滅亡
  • 1212年:西カラハン朝滅亡

カラハン朝

首都:ベラサグン, カシュガル, サマルカンド

内陸アジア世界の変遷

内陸アジアの変遷
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

遊牧民とオアシス民の活動

中央アジアのトルコ化

9世紀半ば、天災とシベリア方面からのキルギスの侵入により、ウイグル遊牧帝国が崩壊すると、帝国を構成していたトルコ系民族は、モンゴル高原から中央アジアのオアシス地帯へと大移動を開始した。
彼らのうち甘粛回廊かんしゅくかいろうへ落ち着いた集団は、甘州を中心に「甘州ウイグル」と呼ばれる勢力を形成し、天山山脈東部に移った集団は「天山ウイグル」と呼ばれる集団を形成した。さらに西方に移動した集団は天山北麓のトルコ系部族カルルクに吸収され、このカルルク部族連合を基盤として、カラハン朝が建国された。

カラハン朝は西隣のサーマーン朝の影響を受けてイスラームへ改宗し、またサーマーン朝でも軍事・政治の実権はしだいにトルコ系軍人の手に移っていった。

10世紀半ば、カラハン朝の伝説的な英主サトゥク・ボグラ・ハンがイスラームに改宗し、イスラームを国教とする史上最初のトルコ=イスラーム国家を樹立したとされる。

10世紀半ば過ぎ、サーマーン朝のマムルーク出身の武将アルプテギーンがアフガニスタンに自立してガズナ朝の基を築いたのはこうした状況下のことである。やがてガズナ朝とカラハン朝が滅亡すると、中央アジア一帯のトルコ系の波はさらに加速した。

中央アジアのトルコ化
マムドム・カーシュガーリー『テュルク語集成』©Public Domain
マムドム・カーシュガーリー『テュルク語集成』
オアシス都市カシュガルは、カラハン朝の時代に首都となり、トルコ化・イスラーム化が進展した都市として著名である。1075年ころバグダードで作成され、カリフのムクタディーに献上されたと伝えられるこの辞典は、トルコ系の諸語をアラビア語で解説した単なる辞典ではなく、当時のイスラーム文化を多方面的に紹介した著作としてもきわめて重要である。

イスラーム世界の形成と発展

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム世界の発展

東方イスラーム世界
11世紀後半のイスラーム世界地図
11世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

12世紀の半ば過ぎになると、アッバース朝カリフを保護下においたイラクのセルジューク朝も、アラル海付近におこったホラズム・シャー朝(1077〜1231)によって1194年に滅ぼされた。
一方、同じトルコ人のカラハン朝(10世紀半ば〜12世紀半ば)は、東、西トルキスタンを統一して、中央アジアに初めてイスラームの思想と文化を導入した。
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歴史

カラハン朝はトルコ系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフル(オアシス地域)を支配した国家である。
カラハン朝がマー・ワラー・アンナフル(オアシス地域)を支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった。
カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベク、カザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。
タリム盆地のウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンやマフムード・カーシュガリー、ユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。

勃興期

840年にモンゴル高原のウイグル国家が崩壊した後、カラハン朝の勢力が台頭する。
ウイグル国家を構成していたテュルク諸部族は中国、チベット、中央アジアに移動し、そのうち15の部族はセミレチエ地方を支配するカルルク族の元に逃走した。

カラハン朝の王統の起源は明らかになっておらず、さまざまな説が挙げられている。
ウクライナの学者Omeljan Pritsakはカラハン朝の起源をウイグル、トルクマン、カルルク、チギル、ヤグマー、カルルク・ヤグマー混合、突厥の7に分類し、カラハン朝の起源をウイグル国家崩壊後に独立したカルルクの部族連合と推定した。
突厥起源説では、突厥の支配支族の一つである阿史那氏の末裔が「カガン」を称し、タラス、イリ河谷、カシュガルに至る地域に新たな部族連合を形成したと説明されている。
カルルクを王朝の起源とする説では亡命者を受け入れたカルルクの集団がやがてカラハン国家に変貌したと説明され、カルルクの指導者であるキュル・ビルゲ(ビルゲ・キュル・カドゥル)、キュル・ビルゲの孫サトゥクのいずれかを王朝の創始者と見なしている。創始者のキュル・ビルゲの時代に、それまでカルルクが本拠地としていたスイアブからベラサグンに本拠地を移したと考えられている。

キュル・ビルゲの子バズルは大ハン(アルスラン・ハン)としてベラサグンを支配し、バズルの弟オグウルチャクは小ハン(ボグラ・ハン)としてタラスを支配した。
893年にマー・ワラー・アンナフル地方を支配するサーマーン朝によってタラスが占領されるとオグウルチャクはカシュガルに移り、この地でサーマーン朝の政争から逃れた人間を受け入れた。オグウルチャクが亡命者であるサーマーン朝の王子ナスルをアルトゥシュの統治者に任命した後、ナスルの元にはイスラームの商人が多く集まるようになり、アルトゥシュにモスクが建立された。
オグウルチャクの元ではイスラム教の布教は禁止されていたが、ナスルの受け入れによって領内のイスラム教の信者は次第に増加していき、オグウルチャクの甥サトゥクもナスルの影響を受けて密かにイスラム教に改宗した。
25歳に達したサトゥクは仏教を信仰するオグウルチャクを討ってカシュガルを征服し、カラハン朝で初めてのイスラム教を信仰する君主となる。

カラハン朝の歴史のうち史実と見なされるのはサトゥクがハンに即位した時代以降で、サトゥクの時代より前の時代として記されている出来事を単なる伝承、または史実と見なすかで研究者の見解は分かれている。
イスラームに改宗したカラハン朝の君主は異教を奉じる他の王族に聖戦(ジハード)を挑み、王朝のイスラーム化が進行していく。
942年/3年にサトゥクは大ハンが支配するベラサグンを占領するが、領内ではイスラム教は完全に受け入れられてはいなかった。
11世紀以降に信仰の違いのためにカラハン朝が天山ウイグル王国(西ウイグル王国、高昌回鶻王国)から完全に分離した後、君主の中で初めてイスラム教を受け入れたサトゥクは王朝の始祖として崇拝されるようになった。

宗教戦争とサーマーン朝への攻撃

960年頃にサトゥクの子ムーサーはベラサグンの大ハンを破り、仏教国である于闐(ホータン)を攻撃した。ムーサーはカシュガルを本拠地に定め、それまでの大ハンの都であるベラサグンを副都に降格し、兄弟のスライマーンをベラサグンの小ハンに任命した。于闐は同じ仏教国である天山ウイグル王国、吐蕃と同盟を結んで優位に立ち、969年9月に于闐の攻撃を受けたカラハン朝の君主Tazik Tsun Hienはカシュガルを放棄して逃走し、多くの財宝と捕虜が于闐の手に渡った。

サトゥクの孫の時代には、ムーサーの子アリーが国家の東部を支配するアルスラン・ハン、スライマーンの子ハサン(ハールーン)が西部を支配するボグラ・ハンの地位にあり、サーマーン朝が支配するマー・ワラー・アンナフルに侵入した。
992年にハサンはマー・ワラー・アンナフルの中心都市ブハラとサマルカンドを占領するが、ハサンはカシュガルへの帰還中に没し、サーマーン朝はブハラを回復する。996年に締結した条約によってカラハン朝はサーマーン朝からザラフシャーン盆地北部地域を獲得し、999年にアリーの子ナスル・アルスラン・イリク・ハンがブハラを占領し、サーマーン朝を滅ぼした。

998年に大ハンのアリーが于闐との戦争で落命し、カシュガルは仏教徒の反乱に乗じた于闐軍によって占領される。アリーの跡を継いだアフマド1世はブハラに援軍を要請し、ブハラの宗教指導者ムハイディンら4人のイマームに率いられた40,000の志願兵によって于闐軍からカシュガルを奪回した。
カラハン朝は1006年までにホータン、11世紀半ばにクチャを征服し、仏教徒が多数を占める地域のテュルク化・イスラーム化が促進される。于闐が滅亡した後もホータンでは長らく仏教徒の反乱が続いたが、最終的に仏教徒の抵抗は失敗し、イスラム教への改宗を拒否する人間の大部分は他の国に亡命した。

于闐を滅ぼした後、アフマド1世は天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する。1017年にカラハン軍はベラサグンから天山ウイグル王国に攻め込むが反撃に遭い、天山ウイグル王国の軍隊はベラサグン近郊に接近した。病床についていたアフマド1世は陣頭で指揮を執って天山ウイグル王国を破り、トルファンに進軍するが、帰国後に病没した。
アフマド1世の死後にカラハン朝内部の抗争は激化し、ホータンを支配するユースフ・カディル・ハンがカシュガルのハン位を継いだ時代には中央アジアの支配権を巡ってガズナ朝と争った。

当初カラハン朝とガズナ朝との関係は良好で、ナスルとガズナ朝のスルターン・マフムードの娘との婚姻が進められていた。しかし、カラハン朝はガズナ朝を成り上がり者の国と蔑視し、ペルシア・インドを抑えるマフムードもカラハン朝を野蛮な国と見なし、またカラハン朝からの攻撃を警戒していた。
1006年にマフムードがインドに出征した際、ナスルは隙を突いてホラーサーン地方に侵入し、ホータンのユースフの援軍を得てバルフ、ニーシャープールを略奪した。1008年1月にナスルはバルフ近郊のシャルヒヤーンの戦闘でマフムードに敗れ、撤退する。1025年にマフムードがナスルの子アリーの支配化に置かれていたマー・ワラー・アンナフルに侵入した際、カシュガルの支配者の地位を継いだユースフはマフムードと連合して西カラハン朝を攻撃した。
1026年にアリーはブハラ、サマルカンドをガズナ朝から奪回したが、1032年にはマフムードの子マスウードによって一時的にブハラを占領された。

マー・ワラー・アンナフルを中心とする西部はアリーの一族、ベラサグン、カシュガルを中心とする東部はハサンの一族が支配する体制が敷かれていたが、11世紀半ばにカラハン朝は完全に東西に分裂する。東西に分裂したカラハン朝は互いに争い、10世紀半ばから行われていた異教徒に対する聖戦は終息する。

東西分裂後

西カラハン朝はサマルカンドを首都に定め、11世紀にアッバース朝のカリフの権威を承認した。西カラハン朝の支配者は当初ウズガンド(ウズゲン(英語版))に居住していたが、権力を強化した後にサマルカンドに宮廷を移し、ウズガンドはフェルガナの統治者の本拠地とされた。西カラハン朝は全マー・ワラー・アンナフルの支配者を自称していたが、フェルガナはサマルカンドから半ば独立した状態にあった。

東カラハン朝は草原地帯のテュルク・ムスリムの軍事力によってフェルガナ盆地のオアシス都市を支配し、その経済力は天山山脈の南北に及んでいた。ユースフの死後、東カラハン朝はベラサグン、カシュガル、ホータンを支配する大ハン、タラスを支配する小ハンの領土に分裂する。1055年頃、タラスを支配するムハンマド1世・ボグラ・ハンは大ハンが領有するカシュガルを獲得した。ムハンマド1世はカシュガルを文化都市に発展させ、東カラハン朝からは教訓書『クタドゥグ・ビリグ』やトルコ語の辞典『トルコ語集成』などの作品が生み出された。11世紀末に東カラハン朝はアフマド・ボグラ・ハンによって再統一され、彼の治世に『クタドゥグ・ビリグ』が著される。

11世紀初頭にオグズの一派がイランで興したセルジューク朝が1040年にダンダーンカーンの戦いでガズナ朝を破り、勢力を広げた。当初カラハン朝はセルジューク朝の攻撃に耐え、セルジューク朝の支配下に置かれていたホラーサーン地方の都市を占領する。1072年にマー・ワラー・アンナフルはセルジューク朝の攻撃を受け、西カラハン朝のナスル1世はセルジューク朝に臣従を誓った。アフマド1世の治世の1089年、政府と対立するマー・ワラー・アンナフルのウラマー(イスラームの神学者)の要請に応じて西カラハン朝を攻撃したセルジューク軍はサマルカンドを占領し、西カラハン朝はセルジューク朝の支配下に置かれた。アフマド1世はセルジューク朝から支配権を回復したものの、1095年にウラマーによって異端と宣告され、処刑された。およそ半世紀の間、西カラハン朝はセルジューク朝に臣従し、大部分の君主はセルジューク朝によって選ばれた。

東カラハン朝はセルジューク朝がタラス、セミレチエに侵攻した後にセルジューク朝への臣従を表明したが、臣従の期間はごく短かった。1102年に東カラハン朝の王統に連なる西カラハン朝の君主ジブラーイールはセルジューク朝が支配するホラーサーン地方に侵入するが、この地を治める王子サンジャルによってテルメド近郊の戦いで殺害される。1130年にハサン、1132年にマフムード2世を王位に就けた。

12世紀前半の中国北部では女真族の建国した金が契丹族の国家遼に取って代わり、遼の王族耶律大石に率いられた一団は中国から中央アジアに移住してカラ・キタイ(西遼)を建国した。東カラハン朝のアフマド・ハンは東トルキスタンの横断を試みたカラ・キタイ軍を破り、耶律大石は進路を天山山脈北方に変更する。ベラサグンを支配するカラハン朝の王族が耶律大石に援軍を求めた後、ハンの敵を破った耶律大石はベラサグンを奪い、この地でグル・ハンを称した。1137年に西カラハン朝の君主マフムード2世はホジェンド付近の戦闘でカラ・キタイの軍に敗れ、マフムードは叔父であるセルジューク朝のスルターン・サンジャルに助けを求めたが、1141年のカトワーンの戦いでセルジューク朝・カラハン朝の連合軍はカラ・キタイに敗北する。東カラハン朝とカラ・キタイの戦闘に関する記録は残されていないが、アフマドの子イブラーヒーム2世は殉教者(Shahīd)の名前で呼ばれていることからカラ・キタイとの戦闘で落命したと考えられている。臣従を認めさせて貢納を徴収するカラ・キタイの間接統治策の下、東カラハン朝はカラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族のクチュルクに滅ぼされ、西カラハン朝は1212年にホラズム・シャー朝に滅ぼされるまで存続した。

滅亡

1210年にクチュルクはカラ・キタイの王位を簒奪するが、カシュガルとホータンはクチュルクの支配を受け入れなかった。クチュルクはカラ・キタイの宮廷に拘留されていた東カラハン朝の王子ムハンマド3世をカシュガルに帰国させるが、釈放されたムハンマド3世はカシュガルの貴族によって殺害される。東トルキスタンを平定するため、クチュルクは2,3年にわたって軍隊を派遣しなければならなかった。

西カラハン朝の最後の君主オスマーンは中央アジアで勢力を拡大するホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドに協力を求め、従属・貢納と引き換えにカラ・キタイへの攻撃を要請した。1209年/10年にオスマーンはムハンマドが実施したカラ・キタイ遠征に参加して勝利を収め、戦後ムハンマドの娘を娶る。サマルカンドにはカラ・キタイから派遣された代官に代わってホラズムから派遣された知事が赴任したが、オスマーンはホラズムの圧政に苦しみ、1210年/12年にカラ・キタイの王位を簒奪したクチュルクに助けを求め、サマルカンド内のホラズム人を虐殺した。サマルカンドで起きた事件の報告を受け取ったムハンマドはサマルカンドに進軍し、町はホラズム軍の攻撃によって陥落する。降伏したオスマーンとその家族はムハンマドによって殺害され、ムハンマドはサマルカンドを新たな首都に定め、マー・ワラー・アンナフルはホラズム・シャー朝に併合された。

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