27.モンゴルの大帝国
- 1. モンゴル帝国の成立と発展
- 2. 帝国の分裂と元の中国支配
- 3. モンゴルの大帝国
27.モンゴルの大帝国
1. モンゴル帝国の成立と発展
モンゴル族は多くの部族に分裂し、遼(王朝)・金(王朝)の支配を受けていたが、テムジンが諸部族を統一し、1206年にクリルタイでチンギス=ハンの称号を受けた。彼は、帝国の軍事・行政組織として、全遊牧民を1000戸単位に編成した千戸制をしいた。また、強力な騎馬軍を率いて各地に遠征し、西トルキスタン・イランを支配するホラズム・シャー朝を征服し、中央アジアの政治的安定をのぞむムスリム商人と手を結んだ。そしてインド侵入の後、1227年には西夏(大夏)を征服した。チンギス=ハンの死後に即位したオゴタイは、1234年に金(王朝)を滅ぼし華北を領有するとともに、翌年、首都をカラコルムに定めた。オゴタイの命を受けたバトゥは南ロシアからヨーロッパに侵入し、ドイツ・ポーランド連合軍を1241年にワールシュタットの戦いで破り、ヨーロッパ世界を震撼させた。さらに第4代のモンケのときフラグ(フレグ)が西征し、1258年にアッバース朝を滅ぼした。こうしてモンゴル帝国は13世紀の中頃、世界史上空前の大帝国となった。
2. 帝国の分裂と元の中国支配
フビライ(忽必烈)が大ハンに即位すると一族のなかには不満も強く、オゴタイの孫ハイドゥは、草原のハン国の支援を受け約40年にわたる反抗を続けた。このハイドゥの乱の結果、モンゴル帝国は事実上分裂した。第5代のフビライ・ハンは、都を大都に移し、1271年には国号を中国風に元と称し、1276年には南宋を降伏させ、チベット(吐蕃)・高麗を属国とした。
元朝は中国統治にあたって、モンゴル人・色目人・漢人(旧金朝支配下の住民)・南人(旧南宋支配下の住民)に区別した。中央政府首脳部はモンゴル人が独占し、色目人は財務官僚に登用された。またモンゴル人は科挙を行った回数も少なかったため、儒学の古典につうじた士大夫が官界で活躍する機会は少なかった。商業の利益を求めるモンゴル人は駅伝制や、江南の豊かな物資を都に輸送するため大運河をととのえ、海運をひらき、交鈔という紙幣を普及させ、内外の商業の発展をうながした。しかしフビライの死後、帝位継承をめぐる内紛や華美な宮廷生活、チベット仏教の狂信による経費の増大で財政が破綻した。その対策として行った交鈔の濫発や専売制の強化は経済を混乱させ、民衆の生活を疲弊させた。そのため社会不安が高まり各地で農民反乱が続発し、14世紀半ばの白蓮教徒による紅巾の乱の有力な指導者のひとりである朱元璋によって、元はモンゴル高原へ追われた(北元)。
モンゴル帝国の成立により、モンゴルの平和(パクス・タタリカ)による秩序と安定がもたらされ、東西文化の交流も盛んになった。当時、西ヨーロッパは十字軍をおこしていたので、イスラーム教徒を征服したモンゴル帝国に関心をもち、ローマ教皇はプラノ・カルピ二を、ルイ9世(フランス王)はウィリアム・ルブルックを使節としてモンゴル高原におくった。またイタリア諸都市やアラブ人の間でも東方との交渉を求める動きが高まり、イタリア商人のマルコ・ポーロや、モロッコ出身の大旅行家イブン・バットゥータらが元朝を訪れた。
3. モンゴルの大帝国
- モンゴル帝国