アンティゴノス朝マケドニア 3.イラン文明 バクトリアとパルティア アッタロス朝 ポントス 紀元前200年頃の西アジア地図
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

3.イラン文明

1. オリエントと地中海世界


3.イラン文明

3.イラン文明

世界史対照略年表(前3000〜前200)
世界史対照略年表(前3000〜前200)©世界の歴史まっぷ

1. ヘレニズム文化の浸透

アンティゴノス朝マケドニア 3.イラン文明 バクトリアとパルティア アッタロス朝 ポントス 紀元前200年頃の西アジア地図
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

イラン高原は、アレクサンドロス3世の死後もしばらくセレウコス朝の支配を受けていたが、紀元前3世紀半ば、アム川上流のギリシア人が独立してバクトリアを建国すると、カスピ海東南にいたイラン系遊牧民もパルティアを建国した。

バクトリアではヘレニズム文化が栄えたが、紀元前139年にトラハ(大夏)に滅ぼされた。しかしその文化はのちのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すこととなった。

パルティアは、建国後セレウコス朝と争ったが、紀元前2世紀半ばミトラダテス1世のとき西方に領土を拡大し、メソポタミアを併合したのち、ティグリス川東岸のクテシフォンを都に定めた。

パルティアは、中国とローマを結ぶ東西貿易の中継地として繁栄した。中国では、パルティアを建国者アルサケスの名にちなんで安息あんそくとよぶ。パルティアはセレウコス朝がローマの将軍グナエウス・ポンペイウスによって倒されると、直接ローマと抗争することとなり激しく争ったが、その後、国力はしだいに衰えた。文化的には、王が「ギリシア人を愛するもの」と称したことやコイネーとよばれるギリシア語を公用語にしたことからもわかるように、ヘレニズム文化の影響が強くみられる。しかし、王朝後期には先住の農耕民との融合が進むにつれて、しだいにイラン的要素がみられるようになっていった。

2. イラン伝統文化の復興

ササン朝は224年アルダシール1世のときに、パルティアを倒し王朝を創始した。このことは同じイラン系ながら、政権が遊牧民から農耕民に移ったことを意味し、ササン朝はアケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざした。
第2代王シャープール1世は「イラン人および非イラン人の諸王の王」という称号を用い、西方ではローマ(軍人皇帝時代)と戦ってウァレリアヌスを捕虜とした。また、東方ではインダス川西岸にいたる地域を支配下におき、中央集権的な体制を確立した。

ササン朝は5世紀の後半になると、中央アジアからのエフタルの侵入や、西方のビザンツ帝国の反攻を受けて動揺した。しかし6世紀に入るとホスロー1世は、突厥と結んでエフタルを滅ぼし、またビザンツ帝国との戦いを優位に進め、全盛期を迎えた。ササン朝は、ビザンツ帝国と長く抗争をくりかえしながらイラン民族国家を確立したが、ホスロー1世の没後はしだいに衰え、アラビア半島で急速に発展したイスラーム勢力の攻撃を受け、642年のニハーヴァンドの戦いで敗れ、まもなく滅亡した。

ササン朝はアケメネス朝の後継者と称し、意図的にイラン伝統文化の復興をはかると同時に、諸文明をとりいれて、国際色豊かな高度の文明を生み出した。宗教面ではイランの民族的宗教である「ゾロアスター教」を国教化し、経典『アヴェスター』も編纂された。このほか仏教やキリスト教も伝えられ、これらの諸宗教を融合したマニ教も生まれた。マニ教はやがて国内では異端として弾圧されたが、北アフリカや中央アジアをへて唐代の中国にまで広がった。また美術・工芸の分野が大いに発達し、その技術や様式はその後のイスラーム諸王朝によって受け継がれるとともに、西方では地中海をへて、飛鳥時代奈良時代の日本にまで伝えられた。正倉院の「漆胡瓶しっこへい」や法隆寺の「獅子狩文様錦ししかりもんようきんな」は、ササン朝文化の東伝をよく示している。

3. ササン朝の領域

柔然 ササン朝 内陸アジアの新動向 エフタル 5世紀頃の内陸アジア地図
5世紀頃の内陸アジア地図 ©世界の歴史まっぷ
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