48.ウィーン体制の成立
- 1. ウィーン体制の成立
- 2. ウィーン体制の破綻
- 3. ウィーン体制の崩壊
48.ウィーン体制の成立
1. ウィーン体制の成立
ヨーロッパ各国は、ナポレオン没落後のヨーロッパを再組織するためオーストリア外相メッテルニヒ主宰のもとにウィーン会議を開いた。1815年、ウィーン議定書が調印され、フランス代表のタレーランの主張したフランス革命前の王朝・領土を正当とみなし、革命前の状態を回復させようという正統主義を原則に、フランス・スペインでブルボン王家が復活した。一方、大国間の勢力均衡がはかられた。ロシア皇帝はポーランドの王位を兼ね、プロイセンは東西に領土を拡大した。イギリスは旧オランダ領のスリランカ(セイロン島)・ケープ植民地などを獲得した。立憲君主国となったオランダは旧オーストリア領ネーデルラント(ベルギー)をゆずられ、オーストリアは北イタリアを得た。またスイスは永世中立国となった。ドイツではオーストリア・プロイセン以下の35の君主国と4自由市からなるドイツ連邦が組織された。こうして生まれた現状維持をめざすヨーロッパの国際秩序をウィーン体制という。
体制の主眼は大国の勢力均衡によって革命や戦争の再発を防ぐことであった。その秩序を維持するためロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱による神聖同盟や、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアの間で四国同盟が締結され、のちにフランスも加わって五国同盟となった。しかし自由を抑圧する体制の成立は自由主義運動を、また、大国主義の犠牲となって分裂したままの国では統一や独立を求めるナショナリズム(国民主義・民族主義)を広く展開させた。1810〜1820年代の代表的な運動にはドイツのブルシェンシャフトによる改革要求(ブルシェンシャフト運動)、イタリアのカルボナリの反政府運動(カルボナリの反乱)、ロシアの自由主義将校らによるデカブリスト(十二月党員)の乱(デカブリストの反乱)がある。
2. ウィーン体制の破綻
ウィーン体制の破綻は2つの独立運動の成功によりひきおこされた。第1は、ラテンアメリカにおいて、アメリカ独立革命やフランス革命の影響を受け、またナポレオン戦争による本国の混乱に乗じて、1804年にフランス領植民地が独立して黒人共和国ハイチとなった( ラテンアメリカの独立)。1810年代にはシモン=ボリパルやサン=マルティンの指導による独立運動がおこった。運動のにない手となったのが植民地生まれの白人層のクリオーリョである。この独立運動の成功には、イギリスがカニング外相の指導のもと、この地域への市場進出をねらって独立を支持したことや、アメリカが1823年にいわゆるモンロー教書を発してヨーロッパ大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を宣言したことが大きな要因となった。第2は、オスマン帝国からギリシアが独立を達成し、30年にロンドン会議で列国の承認を得たことである。
ウィーン体制に大きな打撃を与えたのがフランスで起きた七月革命である。シャルル10世(フランス王)が反動政治を強行したのに自由主義派は反発し、1830年7月パリの民衆は蜂起し、王を追放し自由主義者のルイ=フィリップ(フランス王)を王に迎えた(七月王政)。七月革命はヨーロッパ各地に飛び火し、ベルギーのオランダからの独立や、イギリスの選挙法改正に大きな影響を与えた。しかし、ポーランドの反乱、ドイツ・イタリアの運動は反動勢力によって鎮圧された。また、メッテルニヒが中心となって進める反自由主義・反ナショナリズムの政治方針を西欧諸国は支持しなくなり、反動政治の重点はオーストリア・ドイツなどの地域に後退した。
3. ウィーン体制の崩壊
ウィーン体制の崩壊は、1848年、フランスの二月革命で始まった。産業資本家や労働者階級が成長し、彼らは少数の大ブルジョワの利益を優先する七月王政に対し、選挙権獲得運動を激化させた。こうした運動を政府が弾圧したため、パリで革命がおこり臨時政府が成立した。この二月革命は各国に影響を与え、ウィーンでは三月革命がおこりメッテルニヒは国外へ亡命し、これによりウィーン体制は崩壊した。続いてベーメン・ハンガリー・イタリアでも民族運動が活発化し、これらの民族運動は「諸国民の春」とよばれた。しかし、1849年にかけて各地の革命運動はすべて鎮圧された。それ以後、西欧諸国では自由主義・民主主義の政治改革が、東欧地域ではナショナリズムによる民族自立が主要な目標となり、西欧と東欧の相違が顕在化した。1848年の革命はそれぞれ異なる方向に進む分岐点となり、また「革命の時代」の終息を告げるものであった。