49.東方問題とロシアの改革
- 1. 「東方問題」の推移
- 2. ベルリン条約後のバルカン半島
- 3. クリミア戦争とロシアの改革
- 4. 北ヨーロッパ諸国の動向
49.東方問題とロシアの改革
1. 「東方問題」の推移
19世紀になるとオスマン帝国の弱体化、その支配下にある諸民族の独立への自覚の高まり、これにヨーロッパ列強の利害関係がからまって、いわゆる東方問題といわれる国際対立がおこった。とくにロシアは穀物輸出の通路にあたるボスフォラス・ダーダネルス両海岸の確保をはかるため、さかんに南下政策をとった。1831年からエジプト総督ムハンマド=アリーが2度にわたるエジプト=トルコ戦争をひきおこすと、ロシアはオスマン帝国を援助して両海峡に関する特権を一時獲得したが、イギリスの干渉でそれを失った。ロシアがオスマン帝国領内のギリシア正教徒の保護を理由に、1853年にオスマン帝国とクリミア戦争をおこすと、イギリスは、フランスとともにオスマン帝国を援助してロシアに宣戦した。この戦争はウィーン体制の成立以来、最初の大戦争となったが、ロシアは敗れ、またもやロシアの南下政策は阻止された。
クリミア戦争によって、ロシアとイギリスが支えてきたナポレオン戦争終結から約40年間続いた有力諸国間の平和は激変した。ウィーン体制下の両反動勢力であったロシアとオーストリアが、バルカン半島の覇権をめぐって離反したことは、ドイツ・イタリアの統一に有利な状況を現出させた。バルカン半島ではクリミア戦争後、スラヴ系民族の団結でオスマン帝国から独立をはかろうとするパン=スラヴ主義の運動がおこった。ロシアはこれを利用して種々の口実を設けて1877年、ロシア=トルコ戦争をおこし、オスマン帝国を破って翌年サン=ステファノ条約を結んだ。しかしイギリス・オーストリアはこれに反対し、ドイツ宰相ビスマルクの朝廷によって1878年、ベルリン会議が開かれ、ロシアの野望は三たび妨げられた。
2. ベルリン条約後のバルカン半島
3. クリミア戦争とロシアの改革
ロシアはいぜんとして皇帝専制政治(ツァーリズム)と農奴制が強固で、市民階級の成長はおくれていた。1825年12月のデカブリストの反乱を鎮圧したロシアは、メッテルニヒ失脚後、「ヨーロッパの憲兵」として国際反動勢力の中心となった。クリミア戦争の敗北は、農奴制ロシアの後進性を暴露した。近代化の必要をさとった皇帝アレクサンドル2世は、1861年に農奴解放令を出し、農奴の人格的自由と土地の所有を認めた。これは地主本位の不徹底な改革ではあったが、ロシアの資本主義発展の道を開いた。
経済発展の遅れたロシアでは、自由主義をになうのは商工業ブルジョワではなくインテリゲンツィアとよばれる社会層であった。彼らは専制の復活に対抗して急進的行動に移り、ナロードニキとよばれた。その思想は、西欧の資本主義に毒されていないロシア古来の農村共同体(ミール)に革命的意識をふきこむことにより、資本主義をへずに社会主義を実現するというものであった。「ヴ=ナロード」をスローガンに掲げて農村に入り込んだが、農民の無関心によってこの運動は挫折した。絶望した人々の間には、テロリズムで政府を倒そうとする過激なニヒリズムの思想が広がり、皇帝アレクサンドル2世や政府高官が暗殺された。
4. 北ヨーロッパ諸国の動向
スウェーデンは北方戦争でロシアに敗れてバルト海の制海権を失い、北ドイツの領土もプロイセンにうばわれた。しかし、19世紀初めには憲法がしかれ、責任内閣制が成立した。ノルウェーはウィーン会議の結果、スウェーデン領となったが、独自の憲法をもち、1905年に行われた国民投票で独立した。
デンマークはプロイセン・オーストリアにシュレスヴィヒ・ホルシュタインを割譲したが、以後、農業・牧畜を中心とする国づくりに努めた。