5.ポリスの変容とヘレニズム時代
- 1. ポリスの変容
- 2. マケドニアの台頭
- 3. ヘレニズム時代
- 4. ヘレニズム世界
5.ポリスの変容とヘレニズム時代
1. ポリスの変容
デロス同盟の盟主アテネの隆盛に脅威を感じた
ペロポネソス同盟の盟主スパルタは、アテネに対抗した。やがてこの両者の間で、ギリシアを二分する
ペロポネソス戦争が紀元前431年におきた。戦争中アテネは、直接民主政の欠陥があらわれて
デマゴーゴスが民会を牛耳るなど
衆愚政治に陥った。スパルタは戦争に勝利したが、4世紀半ばに
テーベに敗れた。
アテネは民主政を回復したが、ペルシア(
アケメネス朝)の干渉は続き、その後もギリシア世界の覇権を巡って、ポリスは抗争をつづけた。こうした抗争はポリス社会の変質をまねいた。国土の荒廃、貨幣経済、奴隷制度の発達は貧富の差を増大させて市民の没落をまねき、
重装歩兵市民団は崩壊し、金で雇われて働く
傭兵の使用が一般化した。このことはポリス社会の基盤の崩壊を意味していた。
ペロポネソス戦争地図 ©世界の歴史まっぷ
2. マケドニアの台頭
紀元前4世紀後半、北方のマケドニアは国王
フィリッポス2世の治下でギリシア文化・戦術を吸収し国力を強化し、紀元前338年、アテネとテーベの連合軍を
カイロネイアの戦いで破った。
フィリッポス2世はスパルタをのぞく全ギリシアのポリスを
コリントス同盟(ヘラス同盟)に集結し、それらを支配下においた。マケドニア(
アルゲアス朝)は、ペルシア(アケメネス朝)に対する復讐と没落市民の救済を目的としてペルシア遠征を企てた。
アレクサンドロス大王東方遠征進路地図 ©世界の歴史まっぷ
これを実行したのが父王フィリッポス2世暗殺後、若くして王位についた
アレクサンドロス3世であった。アレクサンドロス大王は紀元前334年に東方遠征を開始し、
イッソスの戦いでペルシア王
ダレイオス3世をうち破ったのち、エジプトに入り、ここに
アレクサンドリアを建設した。そして紀元前331年には
アルベラの戦いに勝利してペルシアを滅ぼし、その後インダス川流域まで軍を進め、わずか10年の間に、東西にまたがる大帝国を築いた。
3. ヘレニズム時代
アレクサンドロス大王は、その大帝国にペルシア風の礼拝や諸制度を採用し、東方的専制支配をはかるとともに、東西文化の融合につとめた。通婚を奨励し、各地に植民都市を建設し、ギリシア人を入植させた。その結果、ギリシア文化とオリエント各地域の文化が融合して、
ヘレニズム文化が成立した。
しかし、アレクサンドロス3世の早生のため、彼の大帝国は長続きせず、
ディアドコイ(後継者)の争い(
ディアドコイ戦争)がおき、
イプソスの戦いをへて紀元前3世紀前半には
アンティゴノス朝マケドニア、
セレウコス朝シリア、
プトレマイオス朝エジプトなどの諸国に分裂した。3国のなかでもっとも栄えたのはエジプトを支配したプトレマイオス朝である。この王国は
アレクサンドリアを首都とし、ヘレニズム諸国の中心として栄えた。王室は図書館や自然科学の研究所である
ムセイオン(王立研究所)を設立し、ヘレニズム文化の保護をおこなった。
セレウコス朝シリアは領土こそ広大であったが、入植したギリシア人がアム川流域地方に
バクトリアを建国したためふるわなくなった。
この時代には、世界帝国の出現にともなって、従来のポリス世界の枠にとらわれない生き方を理想とする
世界市民主義(
コスモポリタニズム)の思想が出現した。哲学もポリス政治からの逃避と、個人の心の平安の追求を説くようになり、心の平安を得るために
克己禁欲を重視する
ストア派や、精神的快楽(苦しみのない魂の平静の境地)を求める
エピクロス派が盛んになった。
4. ヘレニズム世界
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ