59.アフリカ・太平洋諸地域の分割
- 英の縦断政策・仏の横断政策の対立と回避
- ドイツの進出と再分割要求
- アフリカ大陸の分割
- 太平洋諸地域の分割
59.アフリカ・太平洋諸地域の分割
1. 英の縦断政策・仏の横断政策の対立と回避
イギリスは1875年、スエズ運河会社株式の過半数を得たのち、エジプトの内政に干渉し、これに反対するウラービー運動を鎮圧して、1882年、エジプトを事実上の保護下においた。イギリスはさらに南下してスーダンに至り、マフディー派の激しい抵抗を鎮圧し、1899年スーダンを征服した。アフリカ南部ではセシル=ローズの指導で、ケープ植民地を根拠地として周辺に進出した。1899年から南アフリカ戦争をおこし、トランスヴァール・オレンジ両国を征服した。さらに1910年には従来の植民地にこの両国を加えて南アフリカ連邦を組織した。アフリカの南北をおさえたイギリスは、ケープタウン・カイロをつなぐ、アフリカ縦断政策をとった。この縦断政策はインドのカルカッタに結びつく世界政策のあらわれとして3C政策とよばれる。1830年にアルジェリアを占領していたフランスは、1881年にチュニジアを保護国とし、サハラ砂漠から、ジブチ・マダガスカルをめざす横断政策をとった。フランスの横断政策はイギリスの縦断政策と衝突し、1898年ファショダ事件をおこしたが、フランスの譲歩によって解決した。その後、両国はドイツの脅威に対抗するため1904年英仏協商を成立させ、イギリスはエジプトで、フランスはモロッコで、それぞれ優越権をもつことを相互に認めあった。
2. ドイツの進出と再分割要求
ドイツは1880年代半ば、東アフリカ・南西アフリカ・カメルーンなどの植民地を獲得したが、そこは経済的価値が乏しかったため、さらに植民地の拡大をめざした。英仏が英仏協商を結ぶと、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) はフランスのモロッコ支配に挑戦し、1905年と1911年の2度にわたるモロッコ事件をおこした。しかし、いずれもイギリスがフランスを支持したため失敗し、1912年にモロッコはフランスの保護国となった。
20世紀の初めには、アフリカ全土は、イタリアの侵入をアドワの戦いで撃退したエチオピア帝国と、アメリカから戻った黒人が建国したリベリア共和国を除き、列強により完全に分割された。列強は原料や資源の獲得・商品市場・戦略基地設置などの関心から、人為的に境界線を定め、現地の人々のつながりや交易網を破壊したので、その後の住民の自立や独立に大きな障害となった。
3. アフリカ大陸の分割
4. 太平洋諸地域の分割
オセアニアは18世紀後半にイギリスのクック、フランスのブーゲンヴィルが探検していた。カメハメハの統一したハワイ諸島に続いて、1898年アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)の結果、ミクロネシアに属するグアムは、アメリカに併合された。太平洋でフランスが領土としたのはタヒチ・ニューカレドニアなど、ドイツ領はビスマルク諸島・ニューギニアの一部などであった。オーストラリアは一時イギリスの流刑地とされていたが、1850年には一定の自治権を与えられ、19世紀中頃の金鉱発見から移民が増えた。オーストラリア連邦は、先住民アボリジニーを追いやり、中国人移民を排除して、「白豪主義」を掲げ、1901年にイギリス帝国内の自治領となった。またニュージーランドでは19世紀に移民したイギリス人と先住民マオリの戦いが続いたが、1907年にやはりイギリス帝国の自治領となった。