62.アジア諸国の改革と民族運動
62.アジア諸国の改革と民族運動
1. 中国分割の危機と義和団事件
清が日清戦争に敗北すると、列強は中国分割を進めた。まずロシアは、下関条約で日本が遼東半島を獲得すると、フランス・ドイツを誘って三国干渉で清に返還させ、その代償として東清鉄道の敷設権を得た。遅れて進出したドイツが、宣教師殺害事件を口実に1898年膠州湾を租借すると、これに対抗してロシアも旅順と大連を、イギリスが威海衛・九竜半島北部を租借した。翌99年フランスは広州湾を租借した。これに対し、アメリカはアメリカ=スペイン戦争の翌年(1899年)、国務長官ジョン=ヘイの名で門戸開放・機会均等および領土保全を掲げて、みずからも中国市場への経済的進出をはかった(門戸開放宣言)。
日清戦争の敗北は、中国の若い官僚・知識人層に危機感をつのらせた。彼らは日本の明治維新を範として、議会政治を基礎とする立憲制の樹立をめざした。公羊学派の康有為らによるこの改革を変法運動(戊戌の変法)という。彼らは1898年に光緒帝を動かして政治改革を断行したが、改革に反対する西太后を中心とする保守派のクーデタにより、わずか100日余りで倒された。これを戊戌の政変という。
同じ頃、キリスト教の公認は各地で反キリスト教運動(仇教運動)を激化させた。列強の侵略強化は、排外感情をいちだんと高め、1900年に山東省における義和団事件(義和団の乱)となって爆発した。民衆は「扶清滅洋」をとなえて、鉄道や教会を破壊し、北京に入城した。清朝の保守派はこの運動を利用し、各国に宣戦布告した。しかし、日本・ロシアを主力とする8カ国の連合軍は、在留外国人の保護を名目に北京を占領した。敗れた清は1901年北京議定書(辛丑和約)に調印し、外国軍隊の北京駐屯などを認めた。
2. 中国の分割
19世紀末における列強の租借地
- 旅順・大連
- 威海衛
- 膠州湾
- 九竜半島
- 広州湾
3. 日露戦争と日本の韓国併合
義和団鎮圧を口実に中国東北地方に大軍を送ったロシアは、事件後も撤退せず、さらに朝鮮への圧力を強めた。ロシアの進出を警戒する日本は、同様に脅威を感じたイギリスと1902年日英同盟を結んで対抗した。日本はアメリカ・イギリスの援助を受けて対ロシア強硬策をとり、1904年に日露戦争を開始し、翌05年にポーツマス条約を結んだ。この条約により、日本は韓国の指導・監督権等を得、3次にわたる日韓協約を結んで韓国の実質的支配を進めた。これに対し、韓国では激しい武装抗日闘争(義兵闘争)がおこった。しかし日本は、列強の黙認のもと、これを弾圧し、1910年に韓国を併合して日本の領土とした。
4. 辛亥革命と中華民国の成立
清朝では民族資本家が成長し、外国資本に対し利権回収運動を進めていった。海外においては、華僑や留学生を中心に革命運動が盛んになっていた。孫文は、1905年、日本の東京で中国同盟会を結成し、「民族・民権・民生」という三民主義を思想的支えとして、革命運動を行なった。1911年、身長が外国借款による幹線鉄道の国有化政策を打ち出すと、10月に武昌で軍隊が革命の口火をきり、各省に波及した。これを辛亥革命という。翌12年、革命派は孫文を臨時大総統に選出し、南京で中華民国の建国を宣言した。しかし北洋軍の実力者袁世凱は革命派の力不足をみて、宣統帝(溥儀)の退位を条件に、臨時大総統の地位を譲り受ける密約を革命派に認めさせた。ここに清朝は滅亡した。