生活と信仰
多様な食料獲得技術に支えられて、縄文時代の人々の生活は安定し、一カ所に長い期間住み続ける、定住的な生活を送ることができた。住居は地面を掘りくぼめた竪穴の上に、数本の柱で支えられた屋根をかける構造のもので、竪穴住居と呼ばれる。
生活と信仰
多様な食料獲得技術に支えられて、縄文時代の人々の生活は安定し、一ヶ所に長い期間住み続ける、定住的な生活を送ることができた。住居は地面を掘りくぼめた竪穴の上に、数本の柱で支えられた屋根をかける構造のもので、竪穴住居と呼ばれる。
その中央には炉があり、調理をしたり暖をとったりする場所であった。1軒の竪穴住居に住んだのは一世帯の家族であろう。多くの場合、数単位の家族が一カ所に集まって生活したが、それを集落と呼んでいる。
集落の位置は、水場に近く、日当たりのよい台地や尾根上の平らな場所が選ばれることが多い。中央には広場があり、それを取り囲むように数軒の竪穴住居が環状に並ぶ。集落には食料を保存するための貯蔵穴群や墓地、ごみ捨て場、集会所もしくは共同作業場と考えられる大型の竪穴住居を伴う場合が多い。
一つの集落は4〜6軒程度の世帯からなる20〜30人程度の人々の共同生活の場であった。その集団は縄文時代の社会を構成する基本的な単位であり、人々は集団の中で各々の役割を果たし、助け合いながら日々を送ったのであろう。主に男性は狩猟と石器づくり、女性は木の実の採取や土器づくりに従事していたものと考えられている。
ただし、そのような集団の規模は結婚には小さすぎるので、結婚相手は別集落の出身であることが多かったであろう。各集団には統率者がいた可能性は高いが、身分の上下関係や貧富の差はなかったと考えられている。集団は通婚と交易を通じて相互に結びついていた。
石器の原材料である黒曜石やサヌカイトは産地が限られているのに、産地から遠く離れた遺跡でも発見されている。新潟・富山県境の姫川流域に産地が限定されるひすい(硬玉)の緑色の美しさは縄文の人々の心をとらえ、遠方の集落にももたらされ、特別な装身具として大切にされた。
人々の生活は、いつも自然の脅威と向き合っていたため、人々はあらゆる自然物や自然現象の中に霊威の存在を認めた。原始社会に特徴的なこのような信仰をアニミズムという。呪術の力で病気や災難を取り除こうとし、霊に祈りを捧げることで獲物の増加を願った。このような習俗を示す呪術的遺物に、女性をかたどっだ土偶、男性を象徴的に表現した石棒がある。
縄文時代には抜歯の風習があった。抜歯は人生の通過儀礼、つまり成人式、結婚、近親者の死などの際に行われた。抜歯の状態が、その人の出身を示したという研究もある。前歯に2〜3本の溝を掘ってフォークのようにした叉状研歯は、集落の統率者や呪術者の印であったと考えられる。
秋田県鹿角市十和田大湯にある。ここには野中堂・万座の両遺跡があり、いずれも組石群が集合して帯状にサークルをつくり、内帯・外帯の二重構造をなしている。万座の外帯が径約45m, 野中堂の外帯は径約40m。写真は野中堂の外帯と内帯の間にある特殊組石で、「日時計」と呼ばれる。
縄文時代の人々は、死者を手厚く葬っている。一般的な埋葬方法は、地面に穴(土壙)を掘り、遺体の手足を折り曲げて横たえる屈葬と呼ばれるものである。東日本では墓穴の上に石を敷いたり並べたりすることが多く、それらがつながって墓地全体が大きな石の輪になったものは「環状列石」と呼ばれる。
北海道には環状の土手に囲まれた集合墓地があり、「環状土籬」と呼ばれる。死者が身につけていた装身具のほかに、副葬品が発見されることは少ないが、後期・晩期には石器や土器・弓矢などを副葬した例がある。
三内丸山遺跡
青森県青森市の西部にある縄文時代前期〜中期の約1500年間にわたって営まれた集落遺跡である。
1992(平成4)年からの発掘調査で、従来の縄文時代観を塗り変えるような規模の発見が相ついだため、注目を集めるようになった。
縄文時代中期には台地の中央を削り、逆に谷を埋め立てて整地を行い、その上に集落が存在した。中央に道が走り、その東に成人の墓が列をなし、西には倉と考えられる高床の建物が並んでいた。
北には子供の遺体や死産児を土器におさめて埋葬した墓地があった。北と南の「盛土遺構」と呼ばれる小高い山は、竪穴住居の構築などで生じた残土、焼土や灰、壊れた土器などの道具を長年にわたって捨て続けたためにできた山である。直径1mというクリの大木6本を柱に使った建物は、かなりの高さがあったと考えられ、すぐ北に広がる津軽湾を望む物見櫓のような施設であると推定される。
大規模な土木工事に計画的な集落内施設の配置、ひすい玉に示されるような遠隔地との交易、そして一時期に数百人という規模の人口が予想されることなど、いずれも従来の縄文時代に関する常識を覆すものであった。
縄文時代の東北地方の豊かな自然の恵みを背景に、人々が集住して大規模な村をつくり、村内の規則に従って生活を営んでいたのであろう。
縄文人の寿命
縄文時代の人骨から死亡年齢を推定し、当時の人々の寿命を推定する研究が人類学者によって行われている。
残存率の悪い未成人の骨は対象から外し、15歳以上と推定された人骨のみを検討し、15歳時の平均余命を計算する。それに人口再生産に必要な女性の妊娠・出産期間を考慮に入れると、15歳まで生きた人の平均寿命が30〜35歳と推定された。
それによって、15歳まで生きた人の平均寿命が男女ともほぼ31歳と推定された。
ちなみに、現代の世界の採取狩猟民14集団の人口統計では、15歳まで生きた人の平均寿命が41歳、江戸時代の信濃国諏訪地方の宗門人別帳から得た男性のそれは59歳である。
62歳、女性は約60歳である。