唐風文化と平安仏教
平安京に遷都してから9世紀末ころまでの文化を、嵯峨天皇・清和天皇の時代の元号をとって弘仁・貞観文化と呼んでいる。
唐風文化と平安仏教
平安京に遷都してから9世紀末ころまでの文化を、嵯峨天皇・清和天皇の時代の元号をとって弘仁・貞観文化と呼んでいる。
- 弘仁:810年〜824年 嵯峨天皇、淳和天皇
- 貞観:859年〜877年 清和天皇、陽成天皇
この時代は、政治的には新しい都で律令制を改革して文章経国がはかられ、「良吏」とも呼ばれる文人貴族が登用されることもあった。貴族たちは平安京において都市貴族化する一方、文化的には唐文化を摂取して自らのものに消化した段階を迎え、宮廷で漢文学が発展した。また仏教では、新たに最澄や空海らによって伝えられた天台宗・真言宗が広まり、密教が盛んになったという特色をもつ。
平安新仏教
奈良時代の後半には仏教が政治に深く介入して、過度な仏教中心政策がとられる弊害もあったことから、桓武天皇は、遷都に伴って南都の大寺院(興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺)を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄や空海らによってもたらされた、従来の国家仏教とは異なる新しい仏教を志向する仏教界の動きを支持した。
近江に生まれた最澄は、比叡山に登って修学し、小堂を営んだ。804(延暦23)年、遣唐使に従い入唐、法華経を中心とする天台の教えを受けて多くの経典を伴って帰国し、平安京東北の比叡山に延暦寺を建て、天台宗を開いた。そして『山家学生式』を定めて比叡山で修学する学僧の規則をつくり、それまでの東大寺戒壇における受戒に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざしたが、これは南都の諸宗から激しい反対を受けることとなった。最澄は『顕戒論』を著して反論し、各地で布教を行うとともに戒壇創設を働きかけた。生前には実現しなかったが、最澄の死去直後に大乗戒壇は公認され、のちに延暦寺が日本仏教界の中心としての地位を築くもととなった。延暦寺は仏教・学問の中心となり、浄土教の源信や鎌倉新仏教の開祖たちも多くここで学んでいる。
讃岐に生まれた空海は、はじめ大学に入ったが、儒教・仏教・道教の3者における仏教の優位を論じた『三教指帰』を著して仏教に身を投じた。のち、最澄と同時の804(延暦23)年の遣唐使に従って入唐、長安で密教の奥義を極めて早くも2年後に帰国し、紀伊(和歌山県)の高野山に金剛峰寺を建て、真言宗を開いた。真言は大日如来の真実の言葉の意で、その秘奥なことを指して密教と呼ばれ、釈迦の教えを経典から学び修行して悟りを開こうとする顕教に対して、秘密の呪法の伝授・習得により悟りを開こうとするものである。空海は『十住心論』でこの密教の立場を明らかにしている。密教の根本道場としては、金剛峰寺のほか、空海が嵯峨天皇から賜わった平安京の教王護国寺(東寺)がある。
天台宗の方も、最澄ののち、やはり入唐して新しい密教を学んできた弟子の円仁・円珍らによって本格的に密教を取り入れた。東寺などを中心とした真言宗の密教を東密と呼ぶのに対して、天台宗の密教を台密と呼んでいる。のち円仁と円珍の門流は対立し、10世紀末以降、円仁の門流は延暦寺によって山門派と呼ばれ、円珍の門流は園城寺(三井寺)によって寺門派と呼ばれた。天台・真言の両宗ともに密教として加持祈禱をよく行い、国家・社会の安泰を祈ったが、それに頼って災いを避け幸福を追求しようとする現世利益の面から天皇や貴族たちの帰依を広く集めることになった。
仏教が広まって、それが理解されるのに伴い、在来の神々への信仰と融合する動きも現れた。すでに8世紀から、神社の境内に神宮寺を建てたり、寺院の境内に守護神を鎮守として祭ったり、神前で読経するなどのことが行われており、こうした神仏習合がさらに広まっていった。天台宗・真言宗では、それまでの南都仏教と違って山岳の地に伽藍を営み山中を修行の場としていたから、在来の山岳信仰とも結びついて修験道の源流となった。
修験道は、山伏にみられるように山岳に登って修行することにより呪力を体得するという実践的な信仰であり、在来の山岳信仰の対象であった奈良県吉野の大峰山や北陸の白山などの山々がその舞台となった。また特に熊野三山(熊野の本宮・新宮・那智の3社からなる)は、続く摂関時代・院政期に、多くの天皇・法皇・上皇・摂関家をはじめとする貴族たちの参詣を得るほどの信仰を集めた。
密教芸術
天台宗・真言宗の盛行に伴い、神秘的な密教芸術が新たに発展した。
建築
建築では、寺院が山間に建てられるようになり、その地形に応じてそれまでの形式にとらわれない伽藍配置の密教寺院がつくられ、檜皮葺の屋根も用いられた。室生寺の金堂や室生寺五重塔はこの時代の代表的な建築である。
彫刻
彫刻では、密教に応じて如意輪観音や不動明王などの仏像がつくられた。木彫が主で、一木造で神秘的な表現をもつ仏像が多い。
元興寺薬師如来像、神護寺金堂の薬師如来像、観心寺の如意輪観音像、室生寺金堂の釈迦如来像などの諸像、同じく室生寺弥勒堂の釈迦如来坐像などが著名である。
衣文に翻波式と呼ばれる波形のひだを繰り返し表現する彫り方が用いられ、ふくよかで神秘的な雰囲気をたたえているのがこの時代の特徴である。また、神仏習合を反映して盛んになった神像彫刻として、薬師寺の僧形八幡神像・神功皇后像などがあげられる。
絵画
絵画では、園城寺の不動明王像(黄不動)など、やはり密教系の神秘的な仏画が描かれた。また、神護寺や教王護国寺の両界曼荼羅など、曼荼羅が発達した。曼荼羅は、密教で重んじる大日如来の智徳を表す金剛界と、同じく慈悲を表す胎蔵界の仏教世界を整然とした構図で図化したものである。なお、肖像画の名絵師として百済河成・巨勢金岡らの名が伝わり、その確実な作例はないが、のちの大和絵のもととなる絵画の作者として位置づけられている。
書道
書道では、唐風文化の隆盛に応じて唐風の書(唐様)が広まり、嵯峨天皇・空海・橘逸勢らが能書家として知られ、のち三筆と称せられた。空海が最澄に送った書状の『風信帖』は、闊達な唐様の名筆として名高い。
漢文学の隆盛
嵯峨天皇は、法典を編纂するとともに、中国風の文化を重んじ、日本在来の風習に多くの唐風の儀礼を取り入れてさまざまな宮廷の儀式を整え、確立した。嵯峨天皇のときに『内裏式』が撰され、のちの儀式書に続いていく。儀式の整備は、法典や歴史書の編纂とならんで、文化と結びついた国家経営の一環として重視されたものである。
また、平安宮内の殿舎に唐風の名称をつけたほか、文章経国の思想に基づいて政界に文人・学者を登用するとともに、宮廷で漢詩文を詠む宴をしばしば催した。
もともと古代貴族の教養として漢詩文をつくることは重視されており、奈良時代にも漢詩集として『懐風藻』が編まれたが、9世紀前半の嵯峨天皇・淳和天皇のころには、814(弘仁5)年に小野岑守ら撰の『凌雲集』、818(弘仁9)年に藤原冬嗣・仲雄王ら撰の『文華秀麗集』、827(天長4)年に良岑安世・滋野貞主ら撰の『経国集』といった3つの勅撰漢詩文集が相次いで編まれ、漢文学が盛んになった。漢詩文を自らのものとし習熟した表現をもつ作品がつくられるようになり、嵯峨天皇や空海・小野篁・都良香、そしてやや遅れて菅原道真らが優れた作者として知られている。この時代が、文学史における「国風暗黒時代」と称されるほどである。
空海は、漢詩文作成についての評論ともいえる『文鏡秘府論』を著し、また空海の詩文を集めた『性霊集』(『遍照発揮性霊集』)が編まれるなど、入唐の経験をも受けて優れた文才を示した。
文章経国の思想に応じて、大学での学問も盛んとなり、儒教を学ぶ明経道のほか、中国の歴史・文学を学ぶ紀伝(文章)道が重んじられた。有力な氏族は一族子弟の教育のために、大学別曹を設けた。これは大学に付属する寄宿施設的なもので、学生たちは学費の支給を受けて、書籍を利用しながら大学で学んだ。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏や皇族の奨学院などが知られる。大学は儒教的教養を身につけた官僚を養成する目的をもっていたが、空海が創設した綜芸種智院は、庶民に教育の門戸を開いたことで名高い。