新と後漢
新をたてた王莽は周の政治を理想として極端な復古主義の政策を行い混乱した。農民の赤眉の乱、それに乗じた地方豪族の反乱がおこり王莽は殺され新は15年で滅亡した。劉秀(光武帝)が漢を復興し(後漢)、儒教的な秩序のもとに国内の平和を確立しようと内政に力を注いだ。
新と後漢
新(中国)(8〜23)をたてた王莽は、周の政治を理想として『周礼』などの儒教の経典に基づいて政治をおこない、官制や貨幣制度を改め、全国の土地を国有にし、奴隷の売買を禁じ、また商工業を統制した。その極端な復古主義の政策は社会の実情に合わず、農民や豪族の反抗を招いた。対外的にも、匈奴や西域諸国、高句麗などが離反した。
こうした政治の混乱のなかで農民の反乱(赤眉の乱 18〜27)がおこり、それに乗じた地方豪族の反乱もおこって、都の長安は陥落し、王莽は殺されて新はわずか15年で滅亡した(23)。
赤眉の乱:反乱をおこした農民たちが、王莽の軍隊と識別するために眉毛を赤く染めたことから、この呼び名がある。
新の滅亡後も群雄の争いは続いたが、やがて漢の一族である劉秀(光武帝)は、豪族を率いて勢力を伸ばし、漢(後漢 25〜220)を復興し、洛陽に都をおいた(25)。光武帝(漢)は赤眉の乱を鎮圧すると(27)、内政に力を注ぎ、前漢の諸制度を復活し、儒教的な秩序のもとに国内の平和を確立しようとする一方、対外的には消極策をとった。