国際関係の変化
9世紀末から10世紀にかけて、東アジア諸国は激動の時代を迎えた。
国際関係の変化
9世紀末から10世紀にかけて、東アジア諸国は激動の時代を迎えた。中国では8世紀半ばの安史の乱以来、唐の国力は衰退しつつあったが、9世紀後半の黄巣の乱をきっかけに、907年、唐は滅亡し、979年に宋(北宋)(960〜1127)が中国を統一するまで、五代十国の諸国が分立する混乱期が続いた。
安史の乱:755〜763年、唐の武人安禄山・史思明が玄宗皇帝(唐)に対しておこした反乱。玄宗は都長安を追われ、退位を余儀なくされた。乱は結局鎮圧されたが、その後、唐の国内では武人政権が各地に割拠するようになった。
朝鮮半島の新羅でも、内乱状態が続いて各地の勢力が勃興し、結局935年、王建(太祖(高麗))により建国された高麗(918〜1392)が朝鮮半島を統一する。
さらに中国東北部では、耶律阿保機に率いられた契丹族が10世紀初めに遼(王朝)(契丹 916〜1125)を建国、926年には渤海を滅ぼした。
すでに8世紀後半ころから、日本をめぐる外交は国家的・政治的なものから交易中心の関係に移っていたが、9世紀半ば以降、東アジアの諸地域が混乱状態になると、それらの地域の政治的混乱が日本国内に波及するのを恐れて、日本は外交面で積極的な孤立主義をとるようになった。
こうしたなかで、894(寛平6)年、遣唐大使に任命された菅原道真は、当時唐に滞在し、その疲弊を目にしていた僧中瓘の報告をもとに、遣唐使の中止を建議した。遣唐使の中止後も、中国・朝鮮諸国からの政治的使節や商人の来航は続いたが、一定の条件下での交易は行ったものの、国家的交渉の要求は拒否し続ける。しかし、10世紀後半に宋が中国を統一すると、文物の交流は以前にも増して盛んとなったし、奝然・寂照・成尋らの僧侶が巡礼を目的に入宋するようになり、これらの僧侶のなかには半ば公的な使節として宋の皇帝に謁見する者もいた。
また高麗との関係については、これも公的な交渉はなかったが、1019(寛仁3)年、沿海州地方の女真(刀伊)が九州北部を襲った際、刀伊が掠奪した日本人捕虜を高麗が奪還して送還するなど、新羅時代に比べると友好的な関係が続き、民間交易も盛んに行われた。
平安時代の交易
9〜10世紀の日本と大陸との文物の交流についてみると、日本から大陸へは金・銀や絹・綿などがもたらされ、大陸からはこれらを代価として陶磁器などの工芸品や香料・薬品のほか、仏教の経典・仏具・仏像などが輸入された。具体的には、9世紀では最澄・空海・円仁・円珍らが請来した大量の経典や、10世紀後半に奝然が宋からもち帰り、京都嵯峨の清涼寺に安置された釈迦如来像などがある。
一方、10世紀になると、中国文化の消化・吸収が進んだこともあり、菅原道真らの漢詩文集や源信の『往生要集』が中国に贈られた。また、円仁が渡唐した際に記した旅行記である『入唐求法巡礼行記』は、9世紀の唐を中心とした国際環境を知るうえで格好の史料である。
日本の国境と穢れ
9世紀前半に国の統廃合や征夷事業が一段落すると、こののち近世初期まで続く日本の国境に関する観念がしだいに生まれてくる。
9世紀後半に成立した儀式書には、12月の大晦日に行われる追儺(その年の穢れを除く陰陽道の行事)の祭文のなかに、「四方の堺、東方は陸奥、西方は遠値嘉(長崎県五島列島)、南方は土佐、北方は佐渡」とあり、また11世紀前半の『新猿楽記』という書物には、東は「俘囚の地(陸奥)」から西は「貴賀の島(九州南端の島)」までの地域で活躍する商人の姿が描かれている。一方、9世紀半ば以降、日本が対外的孤立主義をとるようになり、また貴族社会で穢れの観念が発達すると、これらの国境より外の地域を「穢れた地」とする外国観もみられるようになった。