ヴァイキングの活動
カール大帝の出現により、ゲルマン人の大移動以来の混乱に終止符が打たれた西ヨーロッパを、再び動揺の渦に巻き込んだのが9〜11世紀の第2次民族大移動であり、その中心をなしたのがマジャル人とヴァイキングであった。ヴァイキングの活動は9世紀以降爆発的に拡大し、活動の内容は主として商業・植民(移住)・略奪・征服からなっていたが、拡大の方向は3つの部族により異なっていた。
ヴァイキングの活動
第2次民族大移動
カール大帝の出現により、ゲルマン人の大移動以来の混乱に終止符が打たれた西ヨーロッパを、再び動揺の渦に巻き込んだのが9〜11世紀の第2次民族大移動であり、その中心をなしたのがマジャル人とヴァイキングであった。
ヴァイキングはノルマン人(「北方の人」の意味)とも称されるように、スカンディナビア半島やユトランド半島を原住地とした北方ゲルマンを指しており、ノース人(ノルウェー)・デーン人(デンマーク)・スウェード人(スウェーデン)の3部族からなっていた。氷河に削り取られた痩地は農業に向かず、狩猟・牧畜・漁業などで生計を立てるほか、早くから他地域との交易に乗り出した。フィヨルド海岸の奥深くの入江集落は、同時に市場の役割も果たしたのである。ヴァイキングの活動は9世紀以降爆発的に拡大し、活動の内容は主として商業・植民(移住)・略奪・征服からなっていたが、拡大の方向は3つの部族により異なっていた。
ノース人の活動は、主としてアイルランドを中心とするブリテン諸島に向けられ、9世紀後半には先住民のいないアイスランドに永住的な植民を開始した。また、クリストファー・コロンブスより5世紀も早く北アメリカの海岸に到達し(1000年頃)、ニューファンドランド植民を試みている。
デーン人は8世紀末から9世紀前半にかけて、沿岸伝いに北西フランスや東部イングランドに侵入した。まず海岸の主要都市を襲い、続いて河川をさかのぼって内陸諸都市を略奪した。西ヨーロッパの主張都市で、ヴァイキングの脅威にさらされない都市はなかった。これらの略奪的活動と並んで定住も進んだ。特に、セーヌ河口一帯に定着したデーン人は、ノース人出身のロロ(徒歩王)を首領にたびたび西フランクを脅かし、911年シャルル3世(単純王)からその地を領有を認められた。これがノルマンディー公国である。
ノルマンディー公国
ノルマンディー公国では、現地のフランス貴族との通婚により、次第にヴァイキング的な特質は失われるとともに、次男、三男以下の騎士が溢れるようになった。そうしたノルマン騎士の多くは、征服者や傭兵としてヨーロッパ各地に出かけたが、特にイスラーム・東ローマ帝国・神聖ローマ帝国などの支配が入り乱れ、政情不安な南イタリアは絶好の移住先であった。その結果、同地方におけるノルマン人の勢力が増大し、11世紀後半にはロベルト・イル・グイスカルドによりイタリア半島南部が、またその弟ルッジェーロ1世によりイスラームの支配下にあったシチリア王国が、それぞれ制圧されるにいたった。
そしてルッジェーロの子ルッジェーロ2世は両者の領土を継承したことにより、1130年、南イタリア(ナポリ王国)とシチリア王国を合わせた両シチリア王国が誕生することになった。
イギリス
また七王国が覇をきそいあっていたイギリスでは、デーン人の侵入に刺激され、829年エグバート(ウェセックス王)により初めて統一された(アングロ・サクソン王国)が、それも長続きしなかった。デーン人の侵入は次第に定着を目的としたものとなり、攻撃も激しさを増して、9世紀後半にはウェセックスを除く諸地域がすべて屈服した。
そのころ国王に即位したアルフレッド大王は、諸勢力を結集してねばり強い反撃を展開し、デーン人との協定(866)により、イングランド南西部の独立を守った。
アルフレッド大王
アルフレッドがウェセックス王に即位した時、デーン人はすでにウェセックス東部にまで広がっており、戦いに敗れて森林に逃れることもあった。しかし、王は要地に城塞を築くとともに、海軍を訓練して防衛の強化をはかり、878年エディトンの戦いで勝利した。その後、デーン人の首長グズルムとの協定で、デーン人支配地(デーンロウ)との境界線を画定した。また、王はカール大帝に習って宮廷学校を創設するなど、文化を積極的に保護した。こうしたことから、のちに「大王」と称されるようになった。
デーン朝(北海帝国)
10世紀になると再びデーン人の侵入が開始された。今度はデンマーク王国を拠点とする組織的かつ大規模なもので、アングロ・サクソン王国は毎年多額の貢納により宥和をはかったが、1016年、ついにデンマーク王子クヌートに征服された。
クヌートはイングランド王に即位し、デーン朝を成立させた(クヌート1世(イングランド王))。
クヌートはその後デンマーク王を継承、さらにノルウェー王を兼ね、スゥエーデンやスコットランドの一部をも支配して、北海を内海とする一台海上帝国を建設した(北海帝国)。
だが、その帝国もクヌートの死とともに急速に瓦解し、イングランドではアングロ・サクソンの王家が復活した。
ウェセックス朝
そのエドワード懺悔王はノルマンディーで成長したこともあって、ノルマンディー出身の貴族を寵愛し、国内貴族と対立した。
1066年、エドワードが没すると、義弟のウェセックス伯ハロルドが王を称し(ハロルド2世(イングランド王))、おりから大軍を率いて北部の要衝ヨークに侵入したハラール3世(ノルウェー王)と戦い、これを撃破した。
ノルマン朝
この隙をついて、南岸に上陸したのがノルマンディー公ウィリアムであった。ウィリアムはエドワード懺悔王の遠縁にあたり、王から後継者の約束を受けたことを理由に、王位を要求した。ノルマン騎士軍を率いたウィリアムは、急遽南下したハロルド2世(イングランド王)をヘイスティングズの戦いで廃止させたのち、ウィリアム1世(イングランド王)として即位し、ノルマン朝を開いた(1066「ノルマン征服(ノルマン・コンクエスト)」)。
ウィリアム1世は、数年のうちに北部を中心とするアングロ・サクソン貴族の反乱を抑え、全イングランドに支配を確立すると、フランスから封建制度を導入して統治した。こうして、ノルマン朝のもとでイングランドの封建国家化が進むことになった。
キエフ公国
ノース人・デーン人と並ぶスウェード人は、7世紀以来スウェーデン南部のメーラル湖のビルカからバルト海東南岸やゴトランド島を結ぶ交易網をもっていたが、9〜11世紀のいわゆるヴァイキング時代には北西ロシアに進出し、スラヴ人やフィン人との交易や略奪により毛皮・奴隷などを手に入れた。そして、西欧諸国とガラス・陶器・毛織物などで取引したほか、遠く東ローマ帝国やアラブ・イスラーム世界ともドニエプル川やヴォルガ川を経由して取引を行い、東ローマ帝国の絹やアラブ銀貨を獲得した。
またスウェード人はロシアの起源をなすノヴゴロドやキエフの国家形成にも関わった。伝説によれば、862年部族同士の抗争に苦しむ東スラヴ人は、ルーシ(スウェード人の一派。ロシアの古名になったともいわれる)のもとに自分たちの支配者を求める使者を送り、リューリクを招いてノヴゴロド国を建設し、混乱をおさめたという。
リューリクの死後、その遺児イーゴリを奉じたオレグ(キエフ大公)が後を継ぎ、さらに南下してドニエプル川中流の都市国家キエフを占領した(882)。リューリクの物語は伝説的要素が濃いものの、オレグの実在は東ローマ帝国の文献でも確認されている。
いずれにせよ、オレグのもとで南北の東スラヴ人は統合され、全ロシア的なキエフ公国(キエフ・ルーシ)が誕生することになった。しかし、他のノルマン国家と同様、キエフ公国のノルマン人もまもなくスラヴ化していった。
ヴァイキングの舟と舟塚
1903年、ノルウェーの首都オスロに近いオセベルクで、高さ6m、径36mに及ぶ舟塚が発見された。発掘の結果、泥炭土の中から850年ころの舟(オーセベリ船)が現れ、王妃と侍女とみられる2人の女性の遺骨のほか、四輪馬車・そり・椅子・クルミ・リンゴなどの副葬品が見つかった。遺骸を舟に葬る風習は、航海と商業に生きたヴァイキングの生活ぶりを示している。この舟は樫材で作られ、長さ21.5m、幅5mと細長く、両端が反り上がり、船首には立派な彫刻が施されていた。ヴァイキングの舟に甲板はなく、通常40〜60人ほどを乗せ、オールと帆で走った。吃水は浅くて河川遡行に適しており、左右どちらの側からも岸に乗りあげることができた。また竜骨の採用により横波への安定性を獲得し、外洋航海を可能にした。