東スラヴ人の動向
882年オレグ(キエフ大公)がキエフを占領し統一国家キエフ公国が成立。13世紀半ば、バトゥ率いるモンゴル軍の攻撃を受けてキエフは荒廃し、以後ロシア諸公国は以後250年にわたりモンゴル(キプチャク・ハン国)支配に屈した。14世紀、モスクワ大公国がクリコヴォの戦いでキプチャク・ハン国の大群を撃破した。イヴァン3世の時代にほぼロシアの統一を完成させるとともに、1480年にはモンゴルの支配から完全に自立した。
東スラヴ人の動向
キエフ公国
東方ロシアに拡大した東スラヴ人は、バルト海と黒海・カスピ海を結ぶ交通の要衝ノヴゴロドやキエフを中心に、9世紀ころまでにいくつかの小国家を建設していたが、882年ノヴゴロドから南下したヴァイキングのオレグ(キエフ大公)がキエフを占領すると、統一国家キエフ公国が成立した。遠征と貢税支配に依拠した初期のキエフ公国では、イーゴリ1世(キエフ大公)(位:912〜945)とスヴャトスラフ1世(キエフ大公)(位:945〜972)の時代に外征を繰り返し、たびたびビザンツ領を荒らしたほか、南ロシアのハザール国やブルガリア帝国に打撃を与えた。
次のウラディミル1世(キエフ大公)(位:980〜1015)は、一族を各地に封じて土着勢力を抑えるとともに、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹と結婚、ギリシア正教を国教と定め(988/989)、国家支配の強化に努めた。
その子スヴャトポルク1世(キエフ大公)(位:1019〜1054)の時代に領土はさらに拡大、ビザンツ文化を積極的に摂取し、絶頂期を迎えた。折しも、ビザンツ帝国に征服されたブルガリアの聖職者が多数亡命してスラヴ語典礼を伝えたことは、キエフ公国のキリスト教化に大きな役割を果たすことになった。だが、繁栄の陰で次第に諸公国の自立化傾向が強まり、それとともに農民の農奴化も進んだ。こうして大公権による公国統一は名目的なものとなり、ウラジーミル2世モノマフ(キエフ大公)(位:1113〜1125)の治世を最後に分裂状態は一層深まった。13世紀半ば、バトゥの率いるモンゴル軍の攻撃を受けてキエフは荒廃(1240)、ロシア諸公国はバトゥの建てたキプチャク・ハン国(1243〜1502)に貢納し、以後250年にわたりモンゴル支配に屈することになった(タタールのくびき)。
モスクワ大公国
やがて14世紀になると、ロシア諸公国の中でモスクワ大公国がキプチャク・ハン国に取り入って勢力を強めた。イヴァン1世(1325〜1340)は、ハンからウラディミル大公の称号を獲得すると(1328)、モスクワにキエフ府主教を迎え、ロシア教会の中心的地位を確立した。また、モスクワはノヴゴロドとともに商業としてしても栄え、移住民の流入を促した。1380年、ドミートリー・ドンスコイ(1359〜1389)は諸公勢力を結集し、クリコヴォの戦いでハンの大群を撃破した。
キプチャク・ハン国は、まもなくティムールの攻撃を受けて衰退し、その領土からシビル・ハン国・カザン・ハン国・クリミア・ハン国・アストラハン・ハン国などの各ハン国が独立していった。その後、モスクワ大公国はイヴァン3世(位:1462〜1505)の時代にノヴゴドロその他の諸公国を併合し、ほぼロシアの統一を完成させるとともに、1480年にはモンゴルの支配から完全に自立した。
クリコヴォの戦い
1380年9月8日、キプチャク・ハン国のママイ・ハン率いるタタール(モンゴル軍)13〜15万と、モスクワ大公国のドミートリー大公に味方するロシア諸公の連合軍約10万が、ドン河畔のクリコヴォで激突。戦うこと数時間、両軍とも多くの被害を出したが、結局ロシア側の勝利に終わった。敗れたママイはまもなくハンの地位を追われ、逆に勝利したドミートリーはドンスコイ(ドン川の)と称され、ロシアにおけるモスクワ大公国の地位を高めた。だが、「タタールのくびき」からの完全な解放には、なお1世紀を要した。
またこれよりさき、イヴァン3世は最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィア(ゾイ・パレオロギナ)と結婚(1472)、ローマ帝国の後継者とギリシア正教の守護者をもって任じ、ツァーリ(皇帝)の称号を用いた。(ここに、ロシアは古代ローマ、ビザンツに次ぐ「第三のローマ」を自認した。)
内政面では全国一律の法典を整備し(1497)、大公権力の強化と農民の農奴化を進めたが、それらの政策はイヴァン4世(イヴァン雷帝 位:1533〜1584)に受け継がれ、16世紀のロシアはポーランドにかわって東欧の強国の地位を占めるにいたった。