マゼランと世界周航
世界周航を初めて成し遂げたポルトガル人のフェルディナンド・マゼランは、ポルトガル王の不興をかい、スペインに移り、彼の世界周航計画について、スペイン王カルロス1世(のちのカール5世(神聖ローマ皇帝))の援助をうけた。1521年戦隊はフィリピンに到達したが、マゼランは現地の紛争に巻き込まれ、セブ島東岸の小島マクタン島で現地人に殺された。
マゼランと世界周航
マゼラン
ポルトガルの下級貴族出身で、モロッコ遠征の際ムーア人と取り引きして王の不興を被り、スペインに逃亡した。スペイン王カルロス1世の許可をうけて、1519年8月10日世界周航に出発し、1521年4月27日マクタン島でラプ=ラプ率いる現地人に殺害された。
ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はアフリカを回る南東の航路に加え、マゼラン海峡を回る南西航路が開かれ、地球が丸いことは実証された。トルデシリャス条約による植民地分界線は東インドにも適用されたので、この地域でスペイン・ポルトガル両国の抗争が続いた。結局、1529年サラゴサ条約で、スペインのフィリピンとポルトガルのモルッカ諸島支配を相互に承認することになった。
理論上は北米を回る北西航路、ロシアの北を回る北東航路も東洋に到達できる可能性があった。失敗には終わったが、この2つのルートの探検も試みられた。北西航路探検は、1509年のセバスチャン・カボット、フランス王の命をうけた1524年のジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(1485頃〜1528)、1534年から1536年にかけてのジャック・カルティエ(1494〜1557)、1609年、1610〜1611年のヘンリー・ハドソン(1550頃〜1611)などがおこなっている。北東航路はイギリスが開拓を試みている。1553年、ヒュー・ウイロビー(?〜1554)とリチャード・チャンセラー(?〜1556)は北東航路探検をおこなった。ウイロビーはロシアのノヴァヤゼムリャ発見後部下とともに凍死したが、チャンセラーはアルハンゲリスクからモスクワにいたり、イギリスとロシアの通商ルートを開くという貢献をすることになった。
近代ヨーロッパの成立年表
イタリア・ルネサンス(14〜16世紀) | |
1450頃 | ヨハネス・グーテンベルク、活版印刷技術発明 |
1488 | バルトロメウ・ディアス、喜望峰到達 |
1492 | スペイン、グラナダを占領(レコンキスタ完了) |
クリフトファー・コロンブス、アメリカに到達 | |
1494 | トルデシリャス条約(スペイン・ポルトガル) |
1495 | レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」制作(〜1498頃) |
1498 | ヴァスコ・ダ・ガマ、カリカットに到達 |
1517 | マルティン・ルター、九十五カ条の論題発表 |
1519 | フェルディナンド・マゼランの部下、世界周航(〜1521) |
1521 | エルナン・コルテス、アステカ帝国征服 |
イタリア戦争(第三次イタリア戦争 〜1526) | |
1524 | ドイツ農民戦争 |
1529 | オスマン軍の第一次ウィーン包囲 |
1533 | フランシスコ・ピサロ、ペルーのインカ帝国征服 |
1534 | 国王至上法発布(イギリス国教会成立) |
イエズス会設立 | |
1541 | ジャン・カルヴァン、ジュネーヴ市政掌握 |
1543 | ニコラウス・コペルニクス『天球回転論(地動説)』刊 |
1545 | トリエント公会議(〜1563) |
16世紀後半、価格革命おこる | |
1555 | アウクスブルクの和議(ルター派の信仰認められる) |
1558 | エリザベス1世の即位(〜1603) |
1559 | カトー・カンブレジ条約(イタリア戦争終結) |