21.東ヨーロッパ世界の成立
- 1. ビザアンツ帝国の衰退
- 2. スラヴ民族のキリスト教化
21.東ヨーロッパ世界の成立
1. ビザンツ帝国の盛衰
初期ビザンツ帝国
ビザンツ帝国の前期は、ローマ帝国の伝統の継承・復興期で、地中海帝国の再統一をめざしていた。一時的ではあったが、それを実現したのが6世紀のユスティニアヌス大帝である。彼はヴァンダル王国・東ゴート王国を滅ぼして、ローマ帝国を復活させた。国内ではトリボニアヌスに命じて『ローマ法大全』を編纂し、首都に壮大なハギア・ソフィアを建立したり、養蚕技術を導入するなど、往時にも勝る帝国を再現した。
中期ビザンツ帝国
ビザンツ帝国の中期には、西欧と分離してギリシア語を公用語とし、ビザンツ帝国というギリシア風呼称がふさわしくなった。領土は小アジアとバルカン半島に縮小したものの、東地中海における大きな政治勢力として存在した。7世紀以降のササン朝・イスラーム勢力の侵入に対抗するため、ヘラクレイオス1世は屯田兵制や軍管区制を実施した。これは大土地所有の発展をおさえ、中小農民を基盤とした中央集権的軍事国家の確立をはかったものである。
ビザンツ皇帝レオン3世は偶像を否定するイスラーム教に刺激を受け、726年聖像禁止令をだした。しかしこれは、副次的に東西教会の分裂を生み出すことになった。
後期ビザンツ帝国
帝国の後期は滅亡に至る時代である。11世紀末には、皇帝は有力な豪族に軍役奉仕とひきかえに、土地の管理権をゆだねるプロノイア制を採用したが、帝権は衰退した。まず1204年、第4回十字軍によって一時首都が占領され、ラテン帝国が建てられた。ビザンツ帝国は14世紀には小アジアからオスマン帝国、北方からスラヴ人、海上からイタリア諸都市の脅威を受けて衰退し、ついに1453年オスマン帝国に滅ぼされた。
ビザンツ帝国の歴史的意義は、イスラーム教徒の侵略からヨーロッパ=キリスト教世界を守る防波堤としての役割を果たしたことであり、文化面ではギリシア古典文化の遺産を受け継いで、イスラーム世界やイタリアのルネサンスに大きな影響を与えたことである。
2. スラヴ民族のキリスト教化
ビザンツ帝国の歴史的意義として、スラヴ民族の同化ということも忘れてはならない。
東スラヴ人
東スラヴ人(ロシア人・ウクライナ人など)が住むロシアでは、ノルマン人の建てた国々が先住民と同化してスラヴ化した。そのなかでビザンツ帝国と交流を深めていたキエフ公国は、10世紀末にウラディミル1世が、ビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教に改宗し、ロシアのビザンツ化を進めた。これ以来、ビザンツ風の専制君主の支配が模倣された。
キエフ公国は13世紀にモンゴルのバトゥの侵入を受け、キプチャク・ハン国の支配下におかれた(「タタールのくびき」)。やがて商業の中心地モスクワで、大公イヴァン3世が1480年に自立してロシアの指導権力となった。イヴァン3世は、ビザンツ皇帝の姪を妻としたことから、ビザンツ皇帝の後継者として皇帝を意味するツァーリの称号を用いた。モスクワはギリシア正教圏の中心の地位を確立し、イヴァン3世の孫イヴァン4世によるロシア帝国発展の基礎がつくられた。
南スラヴ人
バルカン半島に南下した南スラヴ人は、ビザンツ帝国の支配を受けギリシア正教に改宗した。12世紀頃セルビア人が自立し、セルビア王国(中世)を建国し、バルカン半島北部を支配した。アジア系のブルガール人は南スラヴ人と合体し、12世紀に第2次ブルガリア帝国をつくった。西スラヴ人のポーランド王国は10世紀頃建国され、14世紀前半のカジミェシュ大王のもとで繁栄した。その後リトアニア大公ヤゲウォ(ヨガイラ)がポーランド女王と結婚し、女王と同権の国王としてリトアニア=ポーランド王国をつくり、15世紀には東欧最大の勢力となった。
3. ビザンツ文化
ビザンツ文化を代表する芸術作品:ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク(サン・ヴィターレ聖堂モザイク画)
ハギア=ソフィア聖堂