室町幕府
1392(明徳3)年、南北朝の合体。将軍を補佐する管領は、足利一門の有力守護の斯波・細川・畠山3氏を交代で任命(三管領)。侍所長官(所司)は、山名・赤松・京極・一色の4氏の守護から任命(四職)。1390(明徳元)年、土岐氏の乱。1391(明徳2)年、明徳の乱。1395(応永2)年、今川貞世(了俊)罷免。1399(応永6)年、応永の乱。鎌倉公方:足利基氏。
室町幕府
長い間続いた戦乱も、尊氏の孫の足利義満(1358~1408)が将軍職につくころになると、終息の方向に向かった。足利氏の政権は安定し、諸国の武士も幕府が派遣した守護の指揮下に組み入れられていった。南朝側は抵抗する術を失い、幕府との話し合いに応じざるを得なくなった。1392(明徳3)年、南朝の後亀山天皇(在位1383~92)は義満の呼びかけに応じて京都に帰り、北朝の後小松天皇(在位1382~1412)に譲位するというかたちで南北朝の合一が実現した。和平の条件として将来は両統が交互に皇位につくと約束されたが、実現はしなかった。幕府は南朝の皇族をつぎつぎに出家させ、子孫を絶った。南朝の人々は深くこれを恨み、南朝の子孫や遺臣の反乱は、応仁の乱ころまで繰り返しおきていた。
義満は京都の室町小路に面して壮麗な邸宅をつくり、ここで政治を行ったので室町幕府という。この図は義満の時代のものではないが、将軍邸を伝えるもの。四季折々の名木が植えられ、花の御所とよばれた。
義満は1378(永和4)年、京都の室町に花の御所と呼ばれる新邸を営み、 これをもって室町幕府の名称が生まれる。ただ、足利氏の幕府は、鎌倉幕府や江戸幕府という呼び方からすれば、京都幕府と呼ぶべきもので、幕府は商業都市として繁栄していた京都への支配権を朝廷から順次奪っていった。鎌倉時代、朝廷経済に占める都市としての京都の比重は大きく、朝廷は検非違使の活動を通じて、商人の保護と購買者である京中の人々の生活の安定とをはかっていた。幕府は侍所の機能を充実させることで、市中の警察権、市中の刑事・民事の裁判権などを検非違使庁から取り上げていった。都市民の生活を守るものが幕府であることを明らかにしたうえで、1393(明徳4)年には市中商人への課税権を確立した。検非違使の職務を吸収して京都支配が開始され、幕府は名実ともに京都の幕府として歩み始めた。
幕府はこのほかにも、諸国に段銭を賦課する権限や外交を行う権限など、朝廷が保持していた機能を管轄下におき、全国的な統一政権としての実を整えた。将軍の権威も著しい高まりをみせた。義満は将軍として初めて太政大臣に昇り、摂家以下の貴族をもしたがえた。貴族諸家の義満への崇敬はあたかも臣下のごとしと、ある貴族は日記に書き留めている。義満の妻日野氏は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子足利義嗣(1394〜1418)は親王と同等の格式を許された。義満自身もその死後に太上法皇の称号を贈られようとした。このときは幕府側が辞退したために実現しなかったが、義満は天皇・上皇を超える権力を誇り、明(王朝)との交渉では日本国王として振る舞っている。
幕府の機構も義満の時代にはほぼ整った。将軍を補佐するのは管領であり、足利一門の有力守護の斯波・細川・畠山3氏が交代で任命され、三管領と呼ばれた。管領は侍所・政所・問注所を統轄し、将軍の命令を諸国の守護に伝達した。侍所はすでに述べたように京都の警備や裁判をつかさどり、その長官(所司)はおおむね山名・赤松・京極・一色の4氏の守護のうちから任じられた。三管領に対し、これを四職という。政所には実務官僚ともいうべき奉行人が所属し、幕府の財政や事務を担当していた。奉行人は各種の奉行の総称で、飯尾・松田・斎藤・清氏ら、将軍直臣の特定の家々で構成されていた。評定衆や引付もおかれたが、奉行人の働きが盛んになるにつれ、名のみの存在になった。
将軍を支える軍事力の整備も進んだ。古くからの足利氏の家臣、守護の一族、他方の有力武士が集められ、奉公衆という直轄軍が編成された。奉公衆は家臣を率いて在京し、将軍の警備にあたった。幕府は諸国に散在する将軍直轄地、御料所の代官に奉公衆を任じ、低率の年貢を上納させ、残りを彼らの得分とした。直轄地への代官の任命は江戸幕府にも継承されるが、これによって奉公衆は経済的な裏付けを得た。また諸国の守護の動静は、同国の御料所をもつ奉公衆によって牽制された。奉公衆は5部隊からなり、義満のころで3000騎を数えたという。守護が京都に連れて来た兵力が多くて200~300騎であるから、その強大さが想像できる。
優勢な軍事力を背景に、義満は有力守護の統制に乗り出した。まず1390(明徳元)年、美濃・尾張・伊勢3カ国の守護土岐康行(?〜1404)を討伐し、土岐氏を美濃1国に押し込めた(土岐氏の乱)。翌1391(明徳2)年には山陰の雄族の山名氏を討った。山名氏はかつて直義党に属し、足利直冬を奉じて長年幕府と戦った。降伏したのちも発展を続け、11カ国の守護職を有して六分の一殿と称された。義満は山名氏の内紛を利用し、山名氏清(1344〜91)らを滅ぼした(明徳の乱)。山名氏は3カ国の守護に転落した。1399(応永6)年には周防の大内義弘(1356〜99)を討った。義弘は港湾都市堺と博多を掌握し、朝鮮などとの交易で利益を上げていた。義満は謀略によって義弘を追い詰め、堺に立てこもった義弘を攻め減ぼした(応永の乱)。
幕府の財政は、貨幣経済の浸透を前提として、銭貨の徴収によってまかなわれた。定期的な財源といえば御料所からの年貢米であったが、あとはおおむね必要に応じての不定期な課税が行われた。まず守護・地頭にさまざまな名目で税が課せられた。京都で高利貸を営む土倉や酒屋(これもしばしば高利貸を兼ねていた)には土倉役・酒屋役が課せられた。京都周辺の交通の要所には関所も設けられ、関銭・津料が課せられた。幕府の保護下で広く金融活動を展開していた禅宗の寺院にも課税された。日明貿易によるばく大な利益も幕府の重要な財源であった。また内裏の造営・皇位継承儀式の執行など国家的行事の際には、守護を通じて全国に段銭が賦課されることがあった。段銭は田地1段ごとにかけられる税で、家屋1棟ごとに課せられる棟別銭も臨時に課税された。
室町幕府の財政
[御料所] 鎌倉幕府の関東御陵にあたる。足利氏が相伝した土地、南北朝の動乱期に入手した土地である。鎌倉幕府に比べると数量的にかなり少なく、現在200カ所くらいしか検出されていない。荘園制が崩壊しつつあったことも影響して、財源としての重要性は低下している。御料所の多くは奉公衆.奉行人に預けおかれた。
[土倉役・酒屋役] 幕府の京都支配を前提に設定された税目。月利3〜4%の高利貸を営む土倉や酒屋に課税した。有力土倉からなる納銭方一衆を通じて幕府政所に納められ、幕府の主要な財源となった。
[関銭]陸上交通の要地に設けた関所で徴収したもの。人のほかに荷物にも課税した。海上交通での課税が津料と呼ばれる。
[五山禅院への課税] 幕府の援助を得た禅宗寺院は、膨大な荘園を保持し、豊かな経済力を誇っていた。幕府は住持の資格取得、将軍参詣時の献納など、おりにふれて禅院から税を徴収した。
[日明貿易の利潤] 明(王朝)からもたらされた生糸などは20倍で売れたといわれ、ばく大な利益があった。大名・商人に派船を任せる場合でも貨物総額の1割を徴収したが、その額ですら3000~4000貫にのぼったといわれる。
幕府の地方機関としては鎌倉府やいくつかの探題がおかれた。尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東をとくに重視し、足利義詮の弟の足利基氏(1340〜67)を鎌倉公方として鎌倉府を開かせ、関東8カ国と伊豆・甲斐を加えた10カ国を支配させた。鎌倉公方は幕府と同じ組織をもついわば第2の幕府で、京都の幕府に強い対抗意識をもち、しばしば衝突を引きおこした。
探題は京都から遠い地域におかれた。九州探題(鎮西探題とも)・奥州探題・羽州探題である。奥州・羽州探題は陸奥・出羽を統治するものだが、両国が1392(明徳3)年に鎌倉府の管轄になると実質を失い、斯波一族の大崎氏と最上氏とが名称だけを世襲した。九州探題では今川貞世(了俊 1326〜?)の活躍が著名で、九州の武士を指揮した貞世は20年にわたって征西宮懐良親王(後醍醐天皇の皇子 1330〜83)の勢力と戦い、一時は九州全土を席巻する勢いを示していた南朝の征西府を壊滅に追い込んだ。だが、貞世は名声の高まりを将軍義満に警戒され、探題の任を解かれて失脚した。九州探題の働きは貞世の退場とともに衰え、渋川氏が世襲する、やはり名ばかりの存在となった。