商工業の発達
中世の関所は基本的に通行者から通行税を徴収するための経済的な施設であり、古代や近世の関所とはその性格が大きく異なっていた。中世の関所は、もともとは山賊・海賊の活動に由来するもので、幕府・寺社・公家などが山賊・海賊から上前を徴収するかわりに、彼らの略奪行為を一定の範囲内で公認したものが中世の関所の起源と考えられている。
商工業の発達
手工業
この時代、畿内では農村加工業の発達に伴ってさまざまな種類の手工業者が登場し、彼らの同業組合である座の数も増加した。これらの座は、本所である寺社などからしだいに自立し、注文生産や市場目当ての商品生産を行うようになった。さらに京都・奈良などの都市の周辺部では、大和の薦座や萱簾座などのように、農民が自分の生産物を加工して製品をつくる農村の座も生まれ、農村にもしだいに商品経済が浸透していった。
そのほかの地方でも、守護大名や戦国大名の保護のもとで手工業者が成長し、その地方の特色を生かして特産品を生産するようになった
❶。とくに刀剣は国内需要だけでなく、日明貿易の輸出品としても大きな需要があったことから、備前の長船、美濃の関などの特産地を中心に大量に生産された。また京都では古代以来の伝統的な技術と中国から伝来した新たな技術が融合して高級絹織物が生産され、西陣織の基礎が築かれた。酒造業では最大消費地であった京都をはじめ、河内・大和・摂津などが特産地として知られ、そのなかから京都の柳酒や河内の天野酒、大和の菩提山などの銘酒も生まれた。
西陣
現在の上京区の堀川以西、一条通り以北の地を西陣というが、この名は応仁の乱の際、 ここに西軍の陣がおかれたことにちなむもので、15世紀末にはすでに西陣の名が地名として登場する。京都機織業は律令時代の織部司から始まるが、中世に入ると衰退した織部司にかわって、内蔵寮所属の御綾織手など、いくつかの織手の集団が新たに出現した。そのなかから成長を遂げたのが公家の万里小路家に属し、のちの西陣の地を拠点に活動した大舎人座である。大舎人座は応仁の乱を避けて一時堺に疎開したものの、その後、再びこの地にもどって高級絹織物業の生産を再開し、のちの西陣機織業の基礎を築いた。
水産業
水産業では、水産物の商品化が進むにつれて、 とくに網漁が発達し、地曳網(海底に大綱を沈めて海底の魚類をとりつくす漁法)や刺網(帯状の網を魚の通路に垣のように張り、魚を網の目にさし入れる漁法)なども使用されるようになった。また、網漁の発達に伴って漁場をめぐる紛争が増えたことから漁村間の協定や慣習法が整備され、漁場権も成立していった。
製塩業
製塩業では、塩田に入力で海水をくみあげて自然蒸発によって濃い塩水をつくり、これを煮つめて塩をとり出す従来の揚浜法に加え、砂浜を堤で囲み、潮の干満を利用して海水を導入する古式入浜(のちの入浜塩田)もつくられるようになった。
林業
林業も建築資材、そのほかの需要にこたえて発達し、とくにこの時代、大鋸と呼ばれる2人引きの大きな鋸が普及したことによって、製材技術は飛躍的に向上した。木材は、丹波・伊賀・南大和・土佐。安芸など各地で産したが、本曽の檜は高級材としてとくに喜ばれ、 また京都の堀川や鎌倉の材木座などには材木市場も開かれた。
定期市
農業や手工業の発達により、地方の定期市もその数と市日の回数を増していき、月に3回開く三度の市(三斎市)から、応仁の乱後は6回開く六斎市が一般化した。一般的に、市場には一定の商品を売る販売座席(市座)があり、販売座席をもつ商人は市場の領主に市場税を納め、販売を行った。また、都市では見世棚(店棚)を構えた常設の小売店がしだいに増え、京都の米場や淀の魚市場などのように、特定の商品だけを扱う市場も生まれた。
左:鍛治 中:鎧師 右:番匠
行商人
連雀商人や振売とよばれた行商人の数も増加していった。これらの行商人のなかでは、京都の大原女・桂女をはじめ、女性の活躍が目立った。大原女は炭や薪を売る行商人、桂女は鵜飼集団の女性で鮎売りの行商人として早くから活躍したが、そのほか魚売り・扇売り・布売り・豆腐売りなどには女性が多く、また女性の金融業への進出も著しかった。
商人の座も手工業者の座と同じように、その種類や数が著しく増えた。平安時代後期ころから、朝廷と結びついた商人には供御人、大寺社と結びついた商人には神人という称号が与えられ、彼らは朝廷や寺社に一定の製品や営業税を納めることによって、関銭の免除や市場などでの独占的販売権を認められ、広い範囲にわたって活動した。蔵人所供御人となった鋳物師は、すでに中世初期から廻船などによって全国に商圏を広げていたし、大
山崎の離宮八幡宮を本拠地としていた油神人(油座)は、石清水八幡宮を本所とすることによって畿内・美濃・尾張・阿波など10カ国以上の油の販売とその原料である荏胡麻購入の独占権を与えられていた。このほかにも北野神社の西京麹売神人(麹座)や祗園社の綿神人(綿座)など、中世に活躍した座商人には供御人や神人の称号をもつ者が多かった。しかし15世紀以降になると、 しだいに座に加わらない新興商人が増え、旧来の座商人との間に売買の権利をめぐる対立がおこるようになった。また地方では、特定の本所をもたない、近世の仲間に近い新しい性格の座も出現し、そのなかから戦国時代の御用商人につながる有力商人たちが成長していった。
為替
商品経済が盛んになると、貨幣の流通が著しく増え、農民も年貢・公事・夫役などを貨幣で納入することが多くなった。年貢の代銭納は鎌倉時代にすでに始まっており、それに必要な生産物の換金も、当初から荘官や地頭のほか、直接耕作にあたる農民によってもある程度行われていたが、この時代にはそれがますます一般的なものになった。また遠隔地取引の拡大とともに為替(割符)の利用も盛んになり、一つ10貫文の額面をもつ定額の為替が広く流通した。為替は商人たちの間で利用されただけでなく、荘園現地から京都の荘園領主に年貢を送る際にも広く用いられた。
貨幣
貨幣は、従来の宋銭とともに、新たに流入した永楽通宝などの明銭が使用されたが、需要の増大とともに中国銭を模して日本国内で鋳造された粗悪な私鋳銭(鐚銭)も流通するようになったため、取引にあたって悪銭の受取りを拒否し、良質な貨幣だけを受け取ろうとする撰銭が横行して、円滑な流通が阻害された。そのため幕府や戦国大名などは悪銭と良銭(精銭)の混入比率を決めたり、一定の悪銭の流通を禁止するかわりにそれ以外の銭については流通を強制する撰銭令をしばしば発布するなどして、極端な撰銭を抑制し、貨幣流通の円滑化をはかった。
金融業
貨幣経済の発達は、金融業者の活動を促した。当時、酒屋などの有力な商工業者は、土倉と呼ばれた高利貸業を兼ねる者が多く、幕府は京都のこれらの富裕な土倉・酒屋を保護・統制するとともに、土倉役・酒屋役などの営業税を徴収した。15世紀には土倉・酒屋の数は、京都が350軒、奈良が200軒にも達したが、中世末から近世初期に活躍した豪商には、これら土倉・酒屋から発達したものも少なくない。この時代には、ほかにも祠堂銭(禅宗寺院が信者から寄進された銭を低利で一般向けに貸し付ける金融活動)や頼母子(有志の者が集まって講と呼ばれる組織をつくり、定期的に一定の銭を出し合って、くじ引きなどで決めた順番にしたがってそれを受け取っていく金融活動)など、さまざまな種類の金融活動が発達した。
運送業
地方産業が盛んになると遠隔地取引も活発になり、海・川・陸の交通路が発達して廻船の往来も頻繁になった。東大寺領兵庫北関でつくられた関銭賦課の記録大腸である「兵庫北関入船納帳」によると、1445(文安2)年の1年間に瀬戸内海の各港から、さまざまな荷を積んで兵庫港に出入りした船の数は、2700艘以上に及んだ。交通の要地には問(問丸)から発達した問屋がおかれ、年貢の売却や商品の保管、為替の振出しなどにあたつた。また多量の物資が運ばれる京都への輸送路では、馬借・車借と呼ばれる運送業者が活躍し、主食である米の供給にも大きな役割を果たした。こうして室町時代には、交通の要地にあたる港を中心に、多くの地方都市が形成された。一方、 このような交通・運輸の増加に注目した幕府・寺社・公家などは、水陸交通の要地につぎつぎと関所を設けて津料・関銭を徴収し、これを年貢などの土地収入にかわる新たな財源とした。関所の存在は交通の大きな障害となつたため、やがて戦国大名や織豊政権によつて撤廃されることになる。
中世の関所
古代の関所は、京・畿内を外敵から守るための軍事的な施設であり、畿内と畿外、関東と蝦夷地などの境界に設置されて、非常時には閉鎖されるものであった。また近世の関所は「入り鉄砲に出女」という言葉に象徴されるように、人や物資の移動を監視し、取り締まる治安・警察的な機能をもつた施設であった。
これに対し、中世の関所は基本的に通行者から通行税を徴収するための経済的な施設であり、古代や近世の関所とはその性格が大きく異なっていた。中世の関所は、もともとは山賊・海賊の活動に由来するもので、幕府・寺社・公家などが山賊・海賊から上前を徴収するかわりに、彼らの略奪行為を一定の範囲内で公認したものが中世の関所の起源と考えられている。
埋もれた港町、草戸千軒
広島県福山市を流れる芦田川の中洲に、江戸時代前期の1673(延宝元)年に大洪水によって水没した中世の町の跡が埋もれていた。それが草戸千軒軒町遺跡であり、1961(昭和36)年から93(平成5)年まで約30年にわたって行われた精細な発掘調査によって、道路や運河、大小の柵や溝、180基にもおよぶ井戸、それに屋敷や墳墓、寺院の跡など、多数の遺構が発見され、かつてこの地に存在した中世の町の構造が明らかにされた。遺跡を望む西の高台には、本堂と五重塔(いずれも国宝)で知られる真言宗の古刹明王院(旧常福寺)が立地し、この町が門前町としての性格をもっていたことを推測させる。
遺跡からは白磁・青白磁などの中国陶磁器や備前・常滑・瀬戸などの国産陶器をはじめ、土器の椀・皿・漆器・箸・しゃもじ・包丁・曲物・鍋・櫛・下駄・杵・銅銭など、当時の人々の暮らしぶりをうかがわせる多くの遺物が出土し、鍛冶屋や漆職人が使った生産用具なども発見されている。とく注目されるのは、商品の荷札や金融関係の覚書とみられる木簡が約4000点も出土していることである。かつて河口付近にあったとみられる草戸千軒は、常福寺の門前町であると同時に瀬戸内海水運で栄え、活発な商業活動が展開されていた港町・市場町でもあったのである。