文化の地方普及
応仁の乱により荒廃した京都の、公家などの文化人は、地方の大名を頼り続々と地方へ下った。荘園からの収入が断たれ、困窮していた公家たちは、各地の大名や有力武士のもとに身を寄せながら、蹴鞠や和歌、有職故実などを教え、その教授料によって生計を立てた。地方の武士たちは、中央の文化に強いあこがれをもっていたため、積極的に彼らを迎え入れ、文化が地方に普及していった。
文化の地方普及
応仁の乱により京都は荒廃したので、公家などの文化人が地方の大名を頼り、続々と地方へ下った。荘園からの収入が断たれ、困窮していた公家たちは、各地の大名や有力武士のもとに身を寄せながら、蹴鞠や和歌、有職故実などを教え、その教授料によって生計を立てていた。地方の武士たちは、中央の文化に強いあこがれをもっていたため、積極的に彼らを迎え入れた。日本無双の才人とうたわれた一条兼良も、経済的困窮から地方生活を余俄なくされた一人である。越前の朝倉氏や駿河の今川氏など、文芸に強い関心を示した大名は多かったが、とくに対明貿易で繁栄し、公家や文化人とも親交の深かった大内氏の城下町山口には、連歌師宗祇をはじめ多くの文化人や公家が集まり、儒学や和歌などの古典の講義が行われ、書籍の出版も行われた(大内版・山口版)。水墨画の雪舟や儒学の桂庵玄樹(1427~1508)ら、山口に多くの文化人が育ったことも、この地の文化水準の高さを物語っていよう。
儒学
儒学は、新興の大名たちにも必要な学問とされて積極的に受け入れられ、その政治思想にも影響を与えた。五山禅僧であった桂庵玄樹は、明(王朝)から帰国したのち、肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に招かれて儒学の講義を行い、また薩摩において朱子の『大学章句』を刊行するなどの活躍をし、のちの薩南学派の基を開いた。万里集九(1428~?)のように中部・関東地方などの各地をめぐり、地方の人々と交流して優れた漢詩文を残した禅僧も多くいた。
足利学校
関東では、15世紀なかごろ、関東管領上杉憲実が足利学校(創立年代は室町時代初期とみられているが、正確にはわかっていない)を再興した。ここでは全国から集まった禅僧・武士に対して高度な教育がほどこされ、多数の書籍の収集も行われた。足利学校は、その後も小田原北条氏の保護を受け、多いときには3000人を超える学生が集まるほどの隆盛を迎えた。宣教師フランシスコ・ザビエルもこの「坂東の大学」こそ日本で最大の学校だと手紙に記している。
このころすでに地方の武士の子弟を寺院に預けて教育を受けさせる習慣ができており、14世紀につくられた『庭訓往来』などの往来物や中世の基本法典である『御成敗式目』、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて仏教・儒教の教えを易しく説くためにつくられた『実語教』『童子教』などの教訓書などが教科書として用いられていた。
都市の有力な商工業者たちも、その職業上、読み・書き・計算を必要とし、そのため書籍の刊行も盛んに行われるようになった。すでに南北朝時代には現存最古の『論語集解』の刊本である『正平版論語』が堺でつくられたほか、戦国時代の奈良の商人饅頭屋宗二(1498~1581)は15世紀後期に成立した辞書『節用集』を刊行した(『餞頭屋本節用集』)。さらに村落の指導者層の間にも村の運営のため、読み・書き・計算の必要が増して、農村にもしだいに文字の世界が浸透していった。
往来物
平安時代後期から明治時代初期まで、広く使用された初等教科書のことを往来物という。往来とは手紙、とくに往復書簡を意味したが、平安時代後期に往復書簡形式で日常語や手紙の書き方などを示した文例集がつくられて以来、初等教科書の多くはこの形式をとったので、これらを往来物と呼ぶようになった。江戸時代の寺子屋でも『庭訓往来』をはじめとする中世の往来物が教科書として広く使用されていたほか、江戸時代になって新たにつくられた往来物も数千種に及んだ。