経済近代化と雄藩のおこり
佐賀藩が1865年に竣工させた蒸気船「凌風丸」(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

経済近代化と雄藩のおこり

> >


Previous Post

経済近代化と雄藩のおこり

藩の財政難打開のために強引な方法で借金を整理し、藩自身が商業や工業に乗り出して富裕化をめざし、軍事力の強化をはかって藩権力を強化しようとした。これらの藩はのち雄藩として、幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになる。

経済近代化と雄藩のおこり

農業生産を経済の基礎とし、そこから年貢を取り立てることによって成り立つ幕藩体制の仕組みは、天保期ころに本格的な行き詰まりを示した。全体としては農業・工業において商品生産が発展し、貨幣経済は深く浸透していく。そのなかで、北関東の下野国の人口は、1721(享保6)年の56万0020人から1846(弘化こうか3)年には37万8665人と33%も減少し、常陸国が27%、上野国は25%、陸奥国は18%も減少した。人口の減少は、耕作できない田畑を生み出し、農村荒廃につながった。

19世紀に入ると、商品生産地域では問屋商人が生産者に資金や原料を前貸しして生産を行わせる問屋制家内工業がいっそう発展し、一部の地主や問屋商人は作業場を設けて奉公人(賃金労働者)を集め、分業と協業による手工業生産を行うようになった。これをマニュファクチュア(工場制手工業)といい、摂津の伊丹・池田・灘などの酒造業では早くからこのような経営がみられた。大坂周辺や京都の西陣、尾張の綿織物業、北関東の桐生・足利などの絹織物業では数十台の高機たかばたと数十人の奉公人をもつ織屋 が登場してきた。農村荒廃の一方で、資本主義的な工業生産の着実な発展がみられるなど、社会・経済構造の変化は幕藩領主にとっては体制の危機であった。

マニュファクチュア
江戸時代 経済の変化 ©世界の歴史まっぷ

19世紀に入ると、問屋制家内工業がいっそう発達し、分業と協業による手工業的(資本的)生産をおこなうマニュファクチュア(工業制手工業)がおこなわれるようになった。

農村の荒廃に対しては、小田原藩領・下野桜町領、常陸や日光山領などで行われた二宮尊徳にのみやそんとく(金次郎、1787-1856)の報徳仕法ほうとくしほう、下総香取郡長部ながべ村で行われた大原幽学おおはらゆうがく(1797-1858)の性学などのように、荒廃した田畑を回復させ農村を復興させようとする試みがある。しかし、すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われ始めている段階では、このような方法で資本主義の胎動をとめることはできなかった。これに対して、商品生産や工業の発展に積極的に対応し、それを取り込もうとしたのが、藩営専売制藩営工場の設立であった。

織屋:生産者に技術を教える作業場といわれる。

報徳仕法:尊徳司法ともいうが、一方で領主の年貢収奪を制限し、他方で百姓には勤倹力行きんけんりっこうの生活を説き、生産条件を整備しつつ荒廃した田畑を再開発し、農村を復興させようとした。

諸藩も領内の一揆・打ちこわしの多発や藩財政の困難など、藩政の危機に直面していた。この危機を打開し、藩権力の強化をめざす藩政改革が、多くの藩で行われた。

深刻な財政難に直面した鹿児島(薩摩)藩では、下級武士から家老に抜擢された調所広郷ずしょひろさと(1776-1848)が、1827(文政10)年から改革に着手し、三都の商人からの500万両にのぽる借金を、無利息·250年賦返済という事実上のたなあげにより処理するとともに、奄美3島(大島・徳之島・喜界島きかいじま)特産の黒砂糖の専売制を強化した。さらに、幕府が清国商人と貿易するため蝦夷地から独占的に集荷していた俵物を、鹿児島藩は松前から長崎に向かう途中の船から買い上げ、これを琉球を通して清国に売るという密貿易を行うなどして、藩財政を立て直した。島津斉彬しまづなりあきら(1809-58)の代になると、積極的な殖産興業政策が進められ、1856(安政3)年には反射炉 ❸ の築造に成功し、造船所やガラス製造所などの洋式エ場を建設し、集成館しゅうせいかんと命名した。また、島津忠義しまづただよし(1840-97)はイギリス人技師の指導で鹿児島紡績工場という日本最初の洋式紡績工場を建設するとともに、長崎のイギリス人貿易商グラヴァー( Glover 1838-1911)らから洋式武器を購入し、軍事力の強化もはかった。

反射炉:製鉄の溶解炉のことであるが、鉄製銃砲の製造を目的にしてつくられた。従来のわが国の製鉄方法では大量の鉄を生産できないため、洋式製鉄の導入をはかり、蘭書の製鉄書の翻訳をもとに、1852(嘉永5)年に佐賀藩が最初に築造した。伊豆韮山にらやま代官江川太郎左衛門が築造したものは、現在も静岡県伊豆の国市に現存する。

1831(天保2)年に防長大一揆と呼ばれる大規模な一揆の洗礼を受けた萩(長州)藩では、村田清風むらたせいふう(1783-1855)を登用し、銀8万5000貫(約140万両)の借金を37年賦返済というたなあげのような方法で整理し、一揆勢から要求された紙・ろうの専売制を改正した。さらに、下関に越荷方こしにかたという役所を設け、他国廻船のもたらす物産という意味の越荷を抵当に、廻船業者などに資金の貸付けを行うほか、その越荷を買い取って委託販売するなどして利益をあげて藩財政の財源とし、洋式武器の購入などにより軍事力の強化がはかられた。

佐賀(肥前)藩でも、藩主鍋島直正なべしまなおまさ(1814-71)が均田制を実施し、小作地を地主からいったん没収し、一部を地主に返してほかを小作人に与えるなどして、本百姓体制の再建をはかった。また特産の陶磁器の専売を進めて藩財政の財源とし、日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど、藩権力の強化につとめた。

高知(土佐)藩では、「おこぜ組」と呼ばれる改革派が登用され、財政緊縮による藩財政の再建が進められ、藩主山内豊重やまうちとよしげ(1827-72)の代には、大砲の鋳造や砲台の築造など、軍事力の強化をはかっている。

しかし水戸藩のように、藩主徳川斉昭とくがわなりあき(1800-60)の努力で藩政改革が行われ、反射炉なども築造されたが、藩内の抗争が激しく、改革がうまく進まなかった藩もある。

改革が比較的うまくいった薩長土肥など西南の大藩のほか、伊達宗城だてむねなり(1818-92)の宇和島藩松平慶永まつだいらよしなが春嶽しゅんがく、1828-90)の福井(越前)藩などでも、有能な中下級藩士を藩政の要職に抜擢し、三都の商人や領内の地主・商人と結びついて積極的に藩営貿易などを行い、藩権力を強化した。これらの諸藩は、危機に直面して有能な中下級藩士を藩政に登用し、藩の財政難打開のために強引な方法で借金を整理し、さらに藩自身が商業や工業に乗り出して富裕化をめざし、それにより軍事力の強化をはかって藩権力を強化しようとした。これらの藩はのち雄藩ゆうはんとして、幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになる。

幕府も、幕末期には代官江川太郎左衛門に命じて伊豆韮山にらやまに反射炉を築かせたほか、フランス人技師の指導のもとに横須賀製鉄所を建設した。これらの幕府や雄藩の洋式工業は、明治維新後、新政府に引き継がれて官営工業の模範となった。

藩政改革

薩摩(鹿児島)藩主:島津重豪
調所広郷
島津斉彬
500万両の負債を無利息250年という長期年賦返済で棚上げ。奄美3島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売制を強化。琉球王国との貿易増大。
島津斉彬は洋式工場群(集成館)を建設。
長州(萩)藩主:毛利敬親
村田清風
銀8.5万貫(約140万両)の負債を37年賦返済で棚上げ。紙・蝋の専売制を改革。下関に越荷方をおいて、廻船の積荷の委託販売をして利益を得る。
肥前(佐賀)藩主:鍋島直正
均田制を実施し、本百姓体制を再建陶磁器の専売制を進める。日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど藩権力を強化。
土佐(高知)藩主:山内豊重
改革派「おこぜ組」
吉田東洋
おこぜ組が財政緊縮による藩財政の再建につとめるが失敗。吉田東洋が紙・木材などの専売を強化する。
水戸藩主:徳川斉昭
藤田東湖
会沢安
全領の検地、弘道館を設立。藩内保守派の反対で改革派不成功。
宇和島藩主:伊達宗城
有能な中下級藩士
紙・楮・蝋の専売強化。村田蔵六を招いて兵備の近代化を図る。
越前(福井)藩主:松平慶永(春嶽)
橋本左内
由利公正
教育の普及や軍備改革を行い、貿易振興策によって財政を再建
広告