開国
1853(嘉永6)年にペリーが来航した直後、老中阿部正弘はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、先例を破って諸大名や幕臣に国書への回答について意見を提出させた。幕府は、朝廷や大名と協調しながらこの難局にあたろうとしたが、この措置は朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。
開国
17世紀後半に市民革命を達成したイギリスでは、18世紀後半から綿糸紡績業を中心に産業革命が始まり、蒸気を動力とする機械の利用によって工業生産力は飛躍的に高まった。このような政治的・経済的な動きは、ヨーロッパ各国やアメリカ大陸にも及んだ。増大する生産力と強力な軍事力を背景にして、イギリスをはじめとする欧米列強は、工場制機械工業の生産品の販売市場と原料の確保をめざしてアジアヘの進出を開始し、アジア諸国を資本主義的世界市場に強制的に組み込もうとした。その過程で、多くの国が植民地、または経済的・政治的に従属的な地位におちいった。その圧力はしだいに東アジアに及んでその先端が日本にも達した。ロシア・イギリスそしてアメリカの船がしきりに日本の港に来航し、通商を要求するようになった背景にはそのような世界情勢の大きな変動があった。
東アジア世界の激動を告げるアヘン戦争(1840〜42)についての情報は、オランダ船・中国船によりいち早く日本に伝えられ、幕府に強い衝撃を与えた。1842(天保13)年にオランダ船が、アヘン戦争終結後にイギリスが通商要求のため軍艦を派遣する計画があるという情報をもたらすと、幕府は異国船打払令を緩和して薪水給与令を出し、漂着した外国船には薪水·食糧を与えることにした。これは、打払令により外国と戦争になる危険を避けるためであった。そして、江戸湾防備のため川越藩と忍藩に警備を命じ、江戸・大坂周辺の支配を強化するため上知令を出し、さらに外国船が上方や東北地方から江戸湾に入る廻船を妨害して江戸に物資が入らなくなる危険ヘの対策として、印旛沼の掘割工事を行うなどの対応策をとろうとした。
1844(弘化元)年、オランダ国王(ウィレム2世(オランダ王))が幕府へ親書を送り、アヘン戦争を教訓として清国の二の舞を演じることを回避するために、開国してはどうかと勧告した。幕府は、清国がアヘン戦争に敗れて香港を割譲し、開国を余儀なくされた情報を得ていたが、オランダ国王の勧告を拒否して鎖国体制を守ろうとした。この年フランス船が、翌1845年にはイギリス船が琉球に来航するなど、日本や中国への寄港地として琉球に開国·通商を要求する事件がおこっている。
アメリカは19世紀に入ると、産業革命を推し進めて中国との貿易に力を入れ、太平洋を航海する船舶や捕鯨船の寄港地として日本の開国を求めてきた。1846(弘化3)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル(Biddle, 1783〜1848)が浦賀に来航し、国交と通商を要求したが幕府は拒絶した。しかし、アメリカは1848年にカリフォルニアで金鉱が発見され西部地方が急速に開けていったことを背景に、太平洋を横断して中国と貿易することを企図し、同時に北太平洋の捕鯨業も活発になっていたので、商船や捕鯨船が燃料・食糧の補給を受け、緊急時には避難し保護を受けられる寄港地が必要となり、日本への開国の要請はいっそう高まった。
こうした要請を背景に、1853(嘉永6)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー(Perry, 1794〜1858)は、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領(Fillmore, 1800〜74)の国書を提出して開国を求めた。幕府は、すでに前の年にオランダ商館長から情報を得ていたが、有効な対策を立てられなかった。幕府は、朝鮮・琉球以外の国からの国書は受領しないという従来の方針をペリーの強い態度に押されて破り、国書を正式に受け取り、翌年に回答することを約束して、とりあえず日本を去らせた。その直後に、ロシア使節プチャーチン(Putyatin, 1803〜83)も長崎に来航し、開国と北方の国境の画定を要求した。
ペリーは翌1854(安政元)年、軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航し、江戸湾の測量を行うなど軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫った。政府は、その威力に屈して日米和親条約を結んだ。なお神奈川宿の近くで交渉と調印が行われたのでこの条約を神奈川条約とも呼んでいる。
日米和親条約
条約は12条からなり、(1)アメリカ船が必要とする燃科や食糧などを供給すること、(2)遭難船や乗組員を救助すること、(3)下田・箱館の2港を開き領事の駐在を認めること、(4)アメリ力にー方的な最恵国待遇を与えること、などを取り決めた。最恵国待遇とは、日本がアメリカ以外の国と結んだ条約で、日本がアメリカに与えたよりも有利な条件を認めたときは、アメリカにも自動的にその条件を適用することをいうが、この条約では相互に最恵国待遇を与えるのではなく、日本が一方的(片務的)に与える不平等なものであった。
ペリーについでロシアのプチャーチンも再び来航し、下田で日露和親条約を締結した。この条約では、下田・箱館のほか長崎も開港することを定め、国境については千島列島の択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地として境界を決めないことにした。ついで、イギリス・オランダとも類似の内容の条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に終止符を打って開国することになった。
1853(嘉永6)年にペリーが来航した直後、老中阿部正弘(1819〜57)はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、先例を破って諸大名や幕臣に国書への回答について意見を提出させた。幕府は、朝廷や大名と協調しながらこの難局にあたろうとしたが、この措置は朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。また、幕府は越前藩主松平慶永(1828-90)·薩摩藩主島津斉彬(1809〜58)·宇和島藩主伊達宗城(1818〜92)らの開明的な藩主の協力も得ながら、幕臣の永井尚志(1816〜91)·岩瀬忠震(1818〜61)・川路聖謨(1801〜68)らの人材を登用し、さらに前水戸藩主徳川斉昭(1800〜60)を幕政に参与させた。
国防を充実させるため、江川太郎左衛門に命じて江戸湾に台場(砲台)を築き、武家諸法度で規定した大船建造の禁を解き、長崎には洋式軍艦の操作を学ばせるための海軍伝習所、江戸には軍事を中心とした洋学の教育・翻訳機関としての蕃書調所、幕臣とその子弟に軍事教育を行う講武所を設けるなどの改革(安政の改革)を行った。また、諸藩でも水戸・鹿児島・萩·佐賀藩などでは、反射炉の建造、大砲の製造、洋式の武器や軍艦の輸入などによる軍事力の強化をはかった。
日米和親条約に基づき、1856(安政3)年、アメリカの初代駐日総領事として下田に駐在したハリス(Harris, 1804〜78)は翌57(安政4)年、江戸に入って将軍に謁見し、強い姿勢で通商条約の締結を求めた。ハリスとの交渉にあたった老中首座堀田正睦(1810〜64)は勅許を得ることによって通商条約をめぐる国内の激しい意見対立をおさえようと上京し、アメリカをはじめとする列強と戦争になることを避けるため、条約を結ばざるを得ないと朝廷を説得した。堀田は勅許を容易に得られるものと判断していたが、朝廷では孝明天皇(在位1846〜66)を先頭に条約締結反対・鎖国攘夷の空気が濃く、勅許を得ることができなかった。
ところが1858年、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で清国がイギリス・フランスに敗北して天津条約を結んだことが伝えられると、ハリスはこれを利用してイギリス·フランスの脅威を説き、早く通商条約に調印するよう迫った。大老に就任した井伊直弼(1815〜60)は、勅許を得られないまま同年6月日米修好通商条約に調印した。しかし、この調印は反対派から違勅調印であるとして、幕府への激しい非難と攻撃を生んだ。
日米修好通商条約
この条約は14条からなり、(1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、(2)通商は自由貿易とすること、(3)開港場に外国人が居住する居留地を設け、一般外国人の日本国内の旅行を禁じること、などが定められていた。しかし、(4)日本に滞在する外国人の裁判は、本国の法に基づき本国の領事が行うという領事裁判権を認め、(5)関税については日本側に税率を自主的に決定する権利である関税自主権がなく、相互に相談して決める協定関税制をとる、という条項を含む不平等条約で明治維新後に条約改正が大きな政治問題となった。
幕府はついで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政の五カ国条約)。この条約により日本は欧米諸国と貿易を開始し、資本主義的世界市場のなかに組み込まれた。なお、開港場のうち神奈川は交通量の多い宿場であったので近くの横浜にかえられ、横浜開港とともに下田は閉鎖され、兵庫も1867(慶応3)年にようやく開港の勅許を得たが、実際には現在の神戸になり、新潟も貿易港として改修する必要があるとして遅れ、開港は1868(明治元)年となった。また、1860(万延元)年、政府は日米修好通商条約批准書を交換するため、外国奉行新見正興(1822〜69)を首席全権としてアメリカに派遣し、このとき勝義邦(海舟、1823〜99)らが幕府軍艦咸臨丸を操縦して太平洋横断に成功した。清国などが結んだ条約と比較して、内容的にはそれほどは違わないが、戦争に敗北して結んだ清国と比べ、交渉で締結した日本の方が少し有利であったとされる。