立憲政治への動き 五箇条の誓文
五箇条の御誓文(乾南陽画/聖徳記念絵画館蔵/画像出典: 高知城歴史博物館

立憲政治への動き

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立憲政治への動き

欧米の議会政治についての知識はすでに幕末に伝えられ、「公議政体」という考え方も芽ばえていた。五箇条の誓文にみられるように、明治政府が公議輿論こうぎよろんを国民統合の原理としてかかげたのはその現れであろう。

立憲政治への動き

欧米の議会政治についての知識はすでに幕末に伝えられ 、「公議政体」という考え方も芽ばえていた。五箇条の誓文にみられるように、明治政府が公議輿論こうぎよろんを国民統合の原理としてかかげたのはその現れであろう。

明冶初期の諸改革のなかで、政府は諸藩の代表を集めて公議所を開く(1869年)など、立法の諮問や建白の受理のための機関をつくったが、十分な成果はあがらなかった。同時に、政府は中央集権化の達成に意を注いだため、公議輿論の尊重は実際には無視されがちであった。しかし、1871(明治4)年の廃藩置県以後まもなく、1872(明治5)年ころから、左院を中心に憲法制定と公選(民選)の議会開設の構想が生まれたのは注目に値する。この構想は、征韓論をめぐる対立が政府内部で大きな政治問題となったので実現しなかったが、当時、政府関係者の間には、立憲政治を「君民共治」の政治と理解し、欧米諸国と国際社会で肩をならべる強国をつくるという国家の大きな目標を達成するためには、立憲政治を行って国を自主的に支えようとする国民をつくり出し、「君民共治」の実をあげることが是非とも必要だとする認識が、かなり広まりつつあったのである。

そのころ、欧米諸国を視察した岩倉使節団は、議会をはじめ、官庁·兵営・工場・学校・病院などの近代的諸施設を実地に見学し、日本の著しい立ち遅れを痛感して帰国したが、使節団の一行に参加した木戸孝允大久保利通らはいずれも帰国後まもない1873(明治6)年、国内政治体制の改革を唱え、立憲政体の採用を説く意見書を起草した

例えば、幕府の蕃書調所に出仕していた洋学者加藤弘之は、文久年間、密かに『鄰艸となりぐさ』(隣草)を書いて、欧米諸国の立憲政治を紹介し、清国の立て直しにことよせて、「大律」と「公会」(憲法と国会)の設置による政治改革を主張している。彼は明治時代に入って新政府に仕え、『立憲政体略』『真政大意』『国体新論』などを著して、政府関係者の立憲思想に影響を与えた。そのほか、西周・津田真道・福沢諭吉らが幕末から明治初期にかけて、立憲政治を紹介したり、その具体案を執筆したりしている。

とりわけ大久保の意見書は、1873年、征韓論をめぐって政府が分裂した直後の同年11月に書かれたもので、イギリスのめざましい発展の原因が、自主的に国を支えようとする国民の力とこれを伸ばすような良政が行われているところにあるとし、日本もまた君主専制に固執することなく、「君民共治」の政治(立憲君主制)を採用する方向に向かうべきことを説いている。

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