パリ=コミューン後に第1インターナショナルが解散したが工業化の進展とともに各国の労働組合や社会主義運動が基盤をもち、パリ国際労働者大会開催、翌1990年5月1日を機に示威行動を取ることを決議(メーデーの起源・第2インターナショナルの発足)。
第2インターナショナル
パリ=コミューン後に国際労働者協会(第1インターナショナル)が解散してからは労働者の国際的な連帯をめざす組織はなくなった。その後、工業化の進展とともに各国の労働組合や社会主義の運動が大衆的基盤をもちはじめたころ、労働者の国際会議も再び開かれるようになった。フランス革命百周年を迎えた1889年、パリで国際労働者大会が開かれ、翌90年5月1日を機に示威行動を取ることを決議した。これがメーデーの起源であり、この大会が第2インターナショナルの事実上の発足であった。96年の大会でアナーキストを排除し、マルクス主義が主流となるとともにドイツ社会民主党が主導権を握り、イギリス労働党やフランス社会党が協力した。加盟国の大半はオランダ・ベルギー・オーストリア=ハンガリー、それにロシアを含むヨーロッパの社会主義者であり、アジアから参加したのは日本だけであった。各大会では8時間労働日などの労働条件の改善、労働組合と社会主義政党との関係、植民地問題、女性問題などが論じられた。1905年のモロッコ事件以降国際情勢が緊迫していくなかで、07年のシュトゥットガルト大会、12年のバーゼル臨時大会では、革命の脅しをかけてでも帝国主義戦争を防止することが労働者階級の義務であるという反戦決議が採択された。しかし、各国の社会主義政党も植民地統治を認めたり、自国の帝国主義政策には甘い判断を下すなど、結束も乱れはじめた。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ社会民主党をはじめ英・仏など各国の社会主義・労働者政党は戦争政策への協力に転じ、第2インターは事実上崩壊した。しかし、戦時中の1915年9月、戦争協力に反対する社会主義者たちはスイスのベルン近郊のツィマーヴァルトに結集し反戦連帯運動の再建を試みた。