アフリカの抵抗
フランスは、劣等人種を文明化することはフランス人の使命ととらえ、現地人がフランスに同化することを求めた。ドイツは、強制的な土地収奪をおこない、2つの部族がおこした反乱を鎮圧するのに4年を要し、数多くの残虐行為が行われた。
アフリカの抵抗
アフリカ分割を完成したヨーロッパ列強はそれぞれのしかたで植民地統治を展開した。イギリスは、ナイジェリアなどの西アフリカでは、本国から総督や顧問を派遣し、現地政府に比較的大きな権限を与えて支配への協力を求め、将来の自治政府への転換を見越した統治をおこなった。しかし、フランスは、普遍的なフランス文明を広めることによって劣等人種を文明化することはフランス人の使命であるととらえ、現地人がフランスの言語や文化に同化することを求めた。だが第三共和政において植民地領有が急速に拡大すると、伝統的な制度や民族や部族の境界を無視して人工的に行政区を設定し、現地に派遣された官僚たちが直接統治する中央集権支配がおこなわれるようになった。
ヨーロッパ列強の侵略に対してアフリカ各地では反乱や抵抗が続発した。エジプトの属領であったスーダンではムハンマド=アフマド Muhammad Ahmad (1844〜85)がマフディー Mahdi (救世主)を称し、エジプト・イギリス勢力に対抗して聖戦を開始した。1885年にはスーダン総督のゴードンを倒して首都ハルトゥームを制圧した。マフディー死後も後継者は独自のマフディー国家を維持したが、1898年、イギリス・エジプト連合軍によってついにマフディー国家は滅ぼされた。西アフリカのギニアでは、サモリ=トゥーレ Samori Touré (1830頃〜1900)がイスラーム国家を建設してヨーロッパ式の軍備を整えてフランスの侵略に抵抗した。サモリはフランスに敵対するイギリスの力を利用しながら抵抗したが、英仏両国の間に妥協が成り立ち、1898年、サモリ帝国は崩壊した。南部アフリカには19世紀初めにシャカ王 Shaka (位1816〜28)によって強力なズールー王国 Zulu がきずかれていた。ブール人のトランスヴァールへの進出を狙っていたイギリスはズールーランドを併合しようとした。ズールー族はこれに激しく抵抗(ズールー戦争, 1878〜79)したが、1879年にイギリスに併合された。
ドイツの支配した領域では、強制的な土地収奪が行われた南西アフリカで、1904年、2つの部族が反乱をおこした。ドイツ軍はこの反乱を鎮圧するのに4年を要し、その間、数多くの残虐行為がおこなわれた。1905年には、タンガニーカで綿の強制栽培制度などに反対して20以上の部族が集結してマジマジの反乱 Maji Maji (マジは「水」の意)をおこした。12万人の犠牲者をだしたといわれるこの反乱の鎮圧後、内外の批判を浴びたドイツ政府は経済的効率を重視した穏健な植民地政策へと転換した。エチオピアでは1896年に皇帝メネリク2世(位1889〜1913)がアドワの戦い Aduwa でイタリア軍を撃破して独立を守った。