列強の中国侵略
1899年ころまでに、ロシアは東北地方、ドイツは山東半島、イギリスは長江流域、フランスは華南の両広(広東・広西)地方、日本は台湾の対岸にあたる福建地方というように、列強の勢力範囲がほぼ定まっていった。
列強の中国侵略
日清戦争での敗北は、大国として恐れられていた清朝が弱体であることをさらけだした。これをみた欧米諸国や日本は、租借地の拡大や鉱山採掘・鉄道敷設の権利など、中国に対する野心をいよいよ露わにし、きそって自己の勢力圏の拡張に乗りだしていった。こうして1890年代後半から、列強の中国侵略はいちだんと激しさを増し、列強による「中国分割」という情勢のなかで、中国の半植民地は、新たな段階に入っていった。
1891年より、ロシアはシベリア平原を横断してウラジヴォストークにいたるシベリア鉄道の建設に着手し、極東での南進の機をうかがっていた。下関条約で、日本が遼東半島を獲得すると、ロシアはフランスとドイツを誘ってこの地方を清に返還させた。これが三国干渉(1895)である。ロシアはこの代償として、シベリア鉄道に接続して東北地方(満州)経由でウラジヴォストークにいたる東清鉄道の敷設権を獲得した ❶ 。
また1898年、ドイツが宣教師殺害事件を口実に、清朝から膠州湾(山東半島)の租借権を獲得すると、ロシアも遼東半島の旅順に艦隊を派遣して、旅順・大連の租借を認めさせ、念願の不凍港を手に入れた。こうしてロシアは、清朝の東北地方を勢力圏とし、さらに朝鮮半島に対する圧力をも強めることになった。これは朝鮮半島の利権独占を意図する日本や、北京・奉天(南満州の中心都市)間を結ぶ京奉鉄道の敷設を進めていたイギリスに大きな警戒感を呼びおこし、極東情勢の緊張を高めることとなった。
ドイツとロシアの強引な租借の成功をみたイギリスは、これに対抗して、1998年に香港島対岸の九竜半島 ❷ と山東半島東端の軍港威海衛を租借し、フランスは1899年に広州湾を租借した。また租借地のほかにも、列強は鉄道敷設権や鉱山採掘権を独占的に保持するそれぞれの勢力圏を設定していった。こうして1899年ころまでに、ロシアは東北地方、ドイツは山東半島、イギリスは長江流域、フランスは華南の両広(広東・広西)地方、日本は台湾の対岸にあたる福建地方というように、列強の勢力範囲がほぼ定まっていった。
同じころ、アメリカでは共和党のマッキンリー大統領による帝国主義的膨張政策が本格的に開始され、アメリカ=スペイン戦争(米西戦争 1898)でフィリピンとグアム島を獲得し、太平洋から中国への進出の気運が高まっていた。このためアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイ John Hay (1838〜1905)の名で門戸開放宣言を発表して、中国市場の門戸開放と列国の機会均等(中国市場の門戸は諸外国に平等に開かれるべきであり、特定国による特殊権益の独占は不公正であること)の原則を提唱し、翌年には中国の領土保全を唱えた。これは、中国進出に遅れをとったアメリカが、先行する列強を牽制しながら、中国市場への割りこみを意図したものであった。この宣言は、アメリカが列強に対して希望を表明したものにすぎなかったが、列強もこれに一応賛意を表したため、中国分割の動きはいったん緩和され、アメリカ資本は中国市場への進出を果たすことができた。( アメリカ合衆国)