革命の胎動 辛亥革命 辛亥革命と外国資本の進出地図
辛亥革命と外国資本の進出地図 ©世界の歴史まっぷ
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革命の胎動

日清戦争以降の中国の学制改革による新式学校の設立や大量の留学生派遣は、新しい知識人層を生み、西欧や日本の実情を知り、清朝を打倒して漢民族の主権国家樹立をめざす革命運動に参加する者が多く現れた。

革命の胎動

義和団事件後の清朝では、強まる外圧のなかで、ようやく国政改革の必要性が認識され、遅まきながら延命のための改革が推進されていった。改革は、かつて清朝自身が葬り去った変法運動の路線(立憲君主政)に沿っておこなわれ 、官制や学校制度の改革、殖産興業の推進、新軍しんぐんと呼ばれる西洋式陸軍の創設などが実施された。こうした改革は日露戦争での日本の勝利の刺激により、とくに1905年以降、急速に進展した。同年科挙が廃止され、1908年には「大日本帝国憲法」をモデルとした「憲法大綱けんぽうたいこう」が公布され、あわせて国会開設が公約されるなど、近代国家の建設にむけての改革がおこなわれた(光緒新政こうしょしんせい)。また、1911年には責任内閣制が施行されたが、その構成は満州人皇族・貴族などが多数を占めるというものであった(新貴内閣しんきないかく)。このことは、清朝朝廷の約束した立憲政治が、結局は皇帝専制政治の延命のための手段にすぎないことを暴露し、国政改革に真剣な努力を続けてきた立憲派の人々にも深い失望を与えた。

かつての変法派は、この時点では「保皇派ほこうはと呼ばれるようになっていた。これは、清朝そのものの打倒をめざす革命運動の進展に対し、もはや変法=立憲君主派は皇帝政治の存続をめざす保守的立場となっていたという情勢の変化をよく示している。

北洋軍閥

清朝が王朝を支える柱として期待をよせた新軍建設の中心となったのは、直隷総督・北洋大臣の要職にあった袁世凱えんせいがいであった。袁世凱配下の新軍を北洋新軍と呼び、この強力な軍事力を掌握した袁世凱は、さらに外国資本と手を結び、銀行(交通銀行)を設立し、交通運輸部門を管下におさめるなど、経済面でも強大な実力を蓄え、清朝朝廷の命運を左右する影の実力者となった。このようにして袁世凱を中心に形成された軍事集団と人脈を北洋軍閥と呼び、以後、辛亥革命から1920年代の軍閥混戦期にいたるまで、中国最大の政治・軍事勢力として、政局に絶大な影響力をおよぼした。

一方、日清戦争以降の中国では、外国資本に対して中国人自身による企業経営が進展し、とくに紡績工業を中心に民族資本家が成長してきた。紡績工業を中心に製塩・海運などの事業を手がけ、江蘇こうそ南通なんつうに「南通王国」と呼ばれる一大企業体をきずいた張謇ちょうけん(1853〜1926)などはその代表である。彼ら民族資本家は、おおむね開明的な考えをもち、議会をつうじての国政参加に意欲を示し、立憲改革派の中心的存在となった。

彼らは清朝に対して、国会の早期開設の請願をくりかえす一方、外国資本に対しては、利権回収運動を推進していった。利権回収運動とは、外国資本が経営する鉄道・鉱山などの利権回収(買い取り)を進めるもので、山西省の鉱山採掘権のイギリスからの回収や、粤漢鉄道えっかんてつどう(広州〜漢口)のベルギーからの回収のほか、川漢鉄道せんかんてつどう(成都〜漢口)の民族資本による敷設などが推進された。

また、学制改革による新式学校の設立や大量の留学生派遣は、従来の伝統的知識人(読書人・士大夫したいふ)階層とはことなる新しい知識人層を生みだした。彼らは清朝の旧態依然たる政治体制に批判の目をむけ、とりわけ西欧や日本の実情をのあたりにし、清朝を打倒して漢民族の主権国家樹立をめざす革命運動に接近・参加する者が多く現れた。なかでも近代政治思想を吸収した留学生(とくに大量に派遣された日本留学生 )の多くが革命運動に参加した。やがて運動の波は中国国内にも拡大していき、こうしたなかで孫文そんぶん(1866〜1925)の率いる興中会こうちゅうかい黄興こうこう(1874〜1916)・宋教仁そうきょうじん(1882〜1913)らの率いる華興会かこうかい章炳麟しょうへいりん(1869〜1936)・蔡元培さいげんばい(1868〜1940)らの率いる光復会こうふくかいなど、清朝打倒をめざす革命結社がつぎつぎに結成された。これら諸結社は、元来別々に活動していたが、日露戦争での日本の勝利に刺激され、孫文 が中心となって、革命結社の大同団結がはかられ、1905年、東京で中国同盟会が組織された 。孫文 は革命の基本理念として、民族の独立・民権の伸長・民生の安定を3本の柱とする三民主義を唱え、これにもとづく「駆除韃虜くじょだつりょ(満州族の清朝打倒)」「恢復中華かいふくちゅうか(中国民族による中国の回復)」「創立民国(共和国の樹立)」「平均地権(土地所有不平等の是正)」を中国同盟会の四大綱領として掲げたほか、機関誌として「民報」を創刊するなど、組織的な革命運動を展開した。

中国同盟会は、1906〜11年にかけて、十数回におよぶ武装蜂起を試みたが、準備不足や不手際のために、いずれも失敗に終わった。しかし、当時の中国では、輸入超過や賠償金支払いによる巨額の銀の国外流失がもたらす物価騰貴に加え、清朝の改革経費のための増税によって、民衆の生活はいちだんと困窮度を増した。地主や米穀商をおそって米を略奪する搶米そうまいや、抗租こうそ抗糧こうりょう暴動( 清の衰退 )も頻発しており、まさしく革命前夜ともいうべき騒然とした状況にあった。

日本留学生は、1901年の280人から05年約8000人、06年約1万7900人と激増していった。

この時日本の民族主義者宮崎寅三みやざきとらぞう滔天とうてん)らが孫文 に協力して、諸派の仲介に努力した。また会名は当初「中国革命同盟会」とする案が有力であったが、「革命」を名のると官憲の取り締まりが厳しくなるとの理由で、最終的に「中国同盟会」に決定した。

孫文

孫文
孫文 (WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

孫文 は広東省香山(中山)県の農民の子として生まれた。貧しい客家はっかの家であったといわれ、一族のなかには太平天国に参加したものもいた。14歳のとき、ハワイで成功していた兄のもとに渡り、アメリカ式の教育をうけ、帰国後、香港で医学を修めた。若くして中国の国難を目のあたりにし、救国に一生を捧げることを決意した孫文は、日清戦争中の1894年、ハワイで興中会を組織した。清朝の打倒と民国の建設を明らかに掲げる最初の革命結社の誕生である。以後、辛亥革命とその挫折をへて、「革命いまだ成功せず」の言を残して59歳の生涯を閉じるまでの孫文の歩みとは、戦闘的民主主義者としての、想像を絶する苦闘の連続にほかならなかった。人格的にも高潔な資質を有していた孫文は、「国父」の尊称をもって呼ばれるほか、「中国革命の先駆者」として高い評価が与えられている。

秋瑾の死

清末の革命運動では、多くの革命の志士の血が流されたが、中国近代女性運動の先駆者であり、女性革命家であった秋瑾しゅうきんもそのひとりである。浙江省の地主の家に生まれ、豪商の家に嫁いだ彼女は、中国の現状に悲憤し、物質的には何ひとつ不自由のない生活を捨てて、単身日本に留学し、中国同盟会に加入して、その後半生を革命運動に捧げた。秋瑾は、『中国女報』の刊行など、郷里浙江省で精力的な革命運動を展開していたが、1907年に武装蜂起を計画して失敗し、逮捕・処刑された。処刑に臨み「秋風秋雨、人を愁殺す」の一句を残している。ときに30歳余であったという。

日本史からみた革命の胎動

日露戦争後の国際関係 – 世界の歴史まっぷ

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