ガイウス・マリウス マリウスの軍制改革
ガイウス・マリウス 像(Glyptothek, Munich 蔵) ©Public domain

ガイウス・マリウス


ガイウス・マリウス 紀元前157年〜紀元前86年1月13日。
共和政ローマ末期の軍人、政治家。平民派からコンスル(執政官)になり、マリウスの軍制改革を行って職業軍人制の土台を築いた。オプティマテス(閥族派、元老院派)のルキウス・コルネリウス・スッラと対立し、内乱を繰り返した。息子である小マリウスに対して大マリウス(Marius Major)とも呼ばれる。

ガイウス・マリウス

平民を支持基盤に置き軍制改革に成功

彼の妻であるユリア・カエサリアはガイウス・ユリウス・カエサルの叔母であり、マリウスは外伯父としてカエサルの政治基盤に多大な影響を残した。

農民の子に生まれたマリウスは、一兵卒から政界の要職に就き、それを足がかりに、平民を支持基盤とするポプラレス(平民派)からコンスル(執政官)に当選した。
当時のローマは、ポエニ戦争による農地荒廃などで、貧富の差が広がり、無産市民が増えていた。戦争の勝利で、属州と奴隷は増えたものの、富んだのはそれらを活用できる貴族層だけであった。彼らの経営する大規模農場の作物に価格競争で敗れた農民たちは、没落していった。

マリウスは、彼らを国費で武装させる「傭兵制」をしいた。兵は生活を保証されたことでマリウスに忠誠を誓い、マリウスは実質上私兵を得たことになった。
マリウスはこれらの兵を率い、北方の異民族の反乱を鎮圧。この軍制改革による制度は、その後も長くローマの軍事制度として引き継がれ、帝政ローマを築く原動力となった。

平民派の英雄となったマリウスは、元部下のルキウス・コルネリウス・スッラ(オプティマテス(閥族ばつぞく派、元老院派))と対立して武力衝突をくり返し、時代は「内乱の一世紀」に突入、共和政ローマは崩壊する。
最終的にはスッラが勝利し、マリウスは失意のうちに病死した。

戦場でのマリウス

常に兵の先頭で剣を振り、鼓舞こぶしたため、部下からの信頼は厚かった。贅沢を好まず、執政官となってからも常に兵士たちと同じものを食べたという。

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年表

カエサル ガイウス・マリウス
ローマ共和政のしくみ
  • 紀元前134年 ヌマンティア戦争(紀元前153年-133年: ケルティベリア人 対 共和政ローマ)小スキピオ率いる遠征軍に志願して活躍し、軍歴を重ねる。
  • 紀元前122年 官職選挙に立候補し、クァエストル(財務官)に当選する。次にオプティマテス(閥族派)のメッテルス家に協力を仰ぎ、平民政治家の登竜門である護民官に当選し元老院議員の地位を得て、裕福階級の投票権を制限する法案を可決させ、メッテルス家や閥族派と敵対する。マリウスは民衆派として民衆から指示される。
    人気を得たマリウスは5大官職のひとつ、アエディリス(造営官)の有力候補となるがメッテルス家の猛反対によって官職を取り逃がす。
    次にインペリウム保有職であるプラエトル(法務官)選挙に出馬して当選しインペラトル(軍指揮官)となる。
    マリウスは、プロプラエトル(前法務官権限)によりイベリア半島のルシタニア総督へ指名され、領内の反乱兵討伐に功績を上げる。
  • 任期満了によりルシタニアから帰国後は暫くは休養生活に入り、ユリウス氏族カエサル家の子女ユリアと結婚して小マリウスをもうける。ユリアの甥にガイウス・ユリウス・カエサルがいる。
  • 紀元前109年 ヌミディア王ユグルタによるユグルタ戦争が勃発。この時の執政官の、メッテルス家の当主・クィントゥス・カエキリウス・メッテルスのレガトゥス(副官)として参戦する。
    戦争が長期化し、兵士達はメッテルスに反感を募らせ、マリウスを支持しする。ユグルタはローマ軍の貴族や軍高官に賄賂を使った買収工作を繰り返し、軍上層部や元老院が著しく腐敗していた。
  • 紀元前108年 マリウスは軍職を辞して単身ローマに戻り、ユグルタ戦争の早期終結の公約を掲げて執政官に立候補する。新人のマリウスは苦戦が予想されたが、民衆は、従来の権力構造の外からの人材を求めていたため、護民官と民会は熱烈にマリウスを歓迎し、マリウスを執政官に選出する。メッテルスは更迭され、マリウスが新たな遠征軍司令官となる。
    メッテルスは去り際に、指揮権を同僚執政官のロンギヌスに譲り、ロンギヌスはもう1つの脅威である北方の蛮族に備えて出兵したため、マリウスは既存の制度では十分に戦争が遂行できないと判断し、大胆な軍制改革を元老院で可決させた。マリウスの軍制改革
  • 紀元前105年 マリウスの副官ルキウス・コルネリウス・スッラは、マリウスの軍制改革の結果生まれた新生ローマ軍の軍事的勝利を背景にユグルタを支援し続けたマウレタニア王国の懐柔に成功し、ユグルタを奸計を以って捕らえさせ、ユグルタ戦争に勝利して終結する。
    凱旋式を行うマリウスに対して、自身の功績が無視されたと感じたスッラは、マリウスへの嫉妬と野心を抱き、勝利の功労者は自分であると主張したが、より重大であった次の戦いでマリウスは更に軍事的才覚を示し、ユグルタ戦争の勝敗は過去のこととなった。
  • 紀元前105年末 北方の蛮族であるキンブリ族とテウトネス族が各所でローマ軍を破って南下(名門貴族に属するクィントゥス・セルウィリウス・カエピオが、平民出身の同僚率いる軍と強調せずに戦い、大敗して80,000人ものローマ兵が犠牲となる。これは単なる軍事的敗北だけでなく、共和政末期の元老院の驕りや腐敗が頂点に達した事例でもあり、ローマ市民の元老院への不信と民衆派の台頭に大きなきっかけを与えた。)していたため、民会はまだアフリカにいるマリウスを紀元前104年担当の執政官に選出する。
    権力の集中を恐れる共和政ローマで執政官の連続当選は禁じられていたが、民衆は独裁者よりも蛮族を更に恐れた。以降、マリウスはキンブリ・テウトニ戦争終結まで4年連続で執政官を務め、戦争の総責任者として独裁的な権限を握った。
  • 紀元前104年 マリウスはユグルタ戦争の凱旋式を挙行し、ユグルタは王の装束を剥ぎ取られて裸にされた上、耳飾りを耳たぶごと引きちぎられて牢獄に放り込まれ、6日後に発狂死する。
  • 紀元前103年 マリウスは自派のルキウス・アップレイウス・サトゥルにヌスを護民官に選出する。
  • 紀元前102年 再び蛮族(キンブリ族と同盟を結ぶテュートン族とアンブロネス族)が南下を開始し、マリウスは全軍を率いて属州ガリア・キサルピナへ行軍する。(アクアエ・アクスティアエの戦い)ローマ軍は圧勝し、続くウェルケッラエの戦いでキンブリ族を殲滅する。キンブリ族・テュートン族・アンブロネス族は歴史上から姿を消し、他の蛮族たちはローマに恐れをなして北方へ逃げ帰り、ローマを揺るがした危機は解決された。
  • 紀元前101年 閥族派と対立しながらも6度目の執政官に当選し、閥族派に対抗するべく民衆派による元老院支配を強めた。
    マリウスの腹心の民衆派・サトゥルヌスは、マリウスの権威を盾にして横暴になり、護民官選挙の対立候補を暗殺など暴挙を起こし、元老院最終勧告を言い渡され、サトゥルヌスは武装蜂起する。マリウスはこれに加わらず投降させ、マリウスは反逆者の汚名は避けられたが、民衆派自体の勢いは退潮し、政界からの引退を余儀なくされた。6度目の執政官の任期が満了すると、隠遁生活を送った。
  • 紀元前91年 護民官マルクス・リウィウス・ドルススのローマ市民権拡大の提案に、ドルススの暗殺で答えたローマに対してイタリアの同盟諸国が大規模な反乱を起こし、マリウスは将軍としてローマ軍に加わる。(同盟市戦争
  • 紀元前88年 ポントス王・ミトリダテス6世は同盟戦争が長期化すると見込み、ギリシア諸都市にローマへの反乱を促した(第一次ミトリダテス戦争)ため、ミトリダテス6世討伐軍司令官の座を、閥族派はスッラを、民衆派はマリウスを候補にあげて争ったが最終的にスッラが任命された。指揮権を望むマリウスは新たな腹心の護民官・プブリウス・スルピキウス・ルフスとクーデターを決行、スッラを支持する複数の議員を謀殺し、マリウスへの指揮権委譲を認めるスルピキウス法を可決させた。マリウスは表舞台に復帰したが、失脚したスッラはローマを脱出し軍の掌握に成功し、元老院の正常化を大義名分に首都ローマへ侵攻する暴挙を起こした。警備用の僅かな兵しかいないローマの混乱の中でマリウスはローマ住民から市民兵を集めてスッラと対峙したが、市民兵は錬度や装備の面で軍団兵に敵わず敗れ去った。
    皮肉にも職業軍人のローマ軍を作り出したマリウス自身が、市民兵より職業軍人が優れている事を証明する形になった。
    スッラ軍によってスルピキウスらは殺害され、民衆派の議員はローマ国内外へと亡命。マリウスも妻ユリアや息子の小マリウス、甥(姉マリーアの息子)のマルクス・マリウス・グラティディヌスらを伴い、オスティア港から北アフリカへと逃れた。強風による航海の不調や、各都市での追討を逃れながら各地を転々としていたが、ミントゥルナエ(Minturnae)にたどり着いた所でマリウスはその都市の市議会によって捕らえられた。
  • 紀元前87年 スッラは新しく執政官に当選したルキウス・コルネリウス・キンナらに後事を託し、ギリシャと小アジアの反乱制圧のために遠征するが、キンナはスッラを裏切り、マリウスなど「民衆派」の復権と「スルピキウス法」の復活を目指す。もう1人の執政官であるグナエウス・オクタウィウスが拒否権を発動して失敗に終わるが、マリウスが兵を率いてアフリカからローマに戻り、ローマはマリウスとキンナの手に落ちる。マリウスは閥族派(スッラ派)のみならず、スッラの提案したマリウスを国賊とする法律に反対しなかった多くの人を殺害した。マルクス・アントニウス・オラトル(マルクス・アントニウスの祖父)やルキウス・ユリウス・カエサルらコンスル経験者を含む元老院議員だけで50人、騎士階級の者に至っては1,000人を超えたと言われ、夥しい数の首がフォルムの前に晒された。復讐を果たしたマリウスは腹心であるキンナと共に民会から執政官に選出される。
    これはマリウスにとっては7回目の執政官就任となり、共和政期においても歴代最多の執政官経験数であった。
  • 紀元前86年 執政官就任から13日目、マリウスは後継者を指名し、持病の悪化で死去する。
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