金解禁と世界恐慌
1929(昭和4)年10月、ニューヨークのウォール街株式市場での株価から世界恐慌が始まり、金解禁を断行した日本は正貨の大量流出、企業の操業短縮と倒産、賃金引き下げを招いた(昭和恐慌)。
金解禁と世界恐慌
1920年代の長びく不況に際して、政府はこれを救済するため日銀券増発によるインフレ的な放漫財政をとったので、一時的には経済破綻を防いだものの、経済界の整理は進まず、インフレイ傾向が深くなって工業の国際競争力は弱くなり、1917(大正6)年以来の金輸出禁止と相まって、外国為替相場は下落と動揺が重なり、国際収支はますます悪化した。
そこで、財界のなかからも、欧米諸国に準じて金の輸出を解禁し、本格的に経済界を整理をすることを望む声がしだいに高くなった。こうした声を背景に、立憲民政党の浜口雄幸内閣は、井上準之助(1869〜1932)を蔵相とし、産業合理化・緊縮財政につとめて物価引下げをはかった。そして、1930(昭和5)年1月から円の実勢価格より円高の旧平価(100円=49.85ドル)で、金の輸出解禁(金解禁)を断行した。そのねらいは金の輸出入を自由化することによって、為替相場を安定させ、輸出を促進して景気を回復しようとするところにあった。
ところが、政府が金解禁の準備を進めていた1929(昭和4)年10月、第ー次世界大戦以来好況が続いて永久繁栄の夢に酔っていたアメリカで、ニューヨークのウォール街株式市場での株価の大暴落がおこり、その影響はたちまち全世界に広まって、世界恐慌となった。アメリカでは、倒産した会社・銀行が2万を超え、失業者は500万人に及び、1933(昭和8)年には一時、全銀行が休業するほどであったから、その激しさは空前のものであったといえる。
そうしたなかでの日本の金解禁は、まさに「嵐のなかで雨戸をあける」ような状態となった。日本にとって最大の輸出市場であったアメリカの恐慌の影響は著しく、輸出は激変して入超が続き、とくに金の流出が激しくなった。わずか2年間で7億3000万円の正貨が流出し、日本経済は深刻な打撃を受け、恐慌状態におちいった(昭和恐慌)。1931(昭和6)年にはイギリスが再び金輸出を禁止し、多くの国がこれにならったので、日本も同年12月、成立早々の犬養毅内閣(立憲政友会、高橋蔵相)が再び金輸出を禁止するにいたった。
恐慌は日本経済のすみずみにまで浸透した。物価・株価は急速に下落し、産業は振るわず、企業の操業短縮や倒産が相つぎ、産業合理化による人員整理や賃金切下げが行われた。また、失業者は街頭にあふれ、1931(昭和6)年中に約200万人に達した。
農村恐慌
恐慌の打撃は、農村では最も深刻であった。家計を助けるめに都会に出稼ぎにでていた農村出身の労働者は職を失って帰村を余儀なくされたうえ、米価をはじめ農産物価格の下落によって、農家経済はいよいよ苦しくなった。とくに、アメリカ向けの生糸輸出が激減し、そのあおりを受けて繭まゆの価格が暴落したので、農村の重要な副業であり、現金収入源であった養蚕業は、大きな打撃を受けた。生活が苦しくなった中小地主は、土地を手放したり、小作地を取りあげようとし、激しい小作争議が各地でおこった。
1931(昭和6)年には冷害による凶作の影響もあって、東北地方を中心に農家の困窮は深刻化し、欠食児童や婦女子の身売りが大きな社会問題になった。こうした経済政策の失敗と農村の惨状を背景として、民間の農本主義者・国家主義者の団体や軍部の青年将校を中心に、政党政治・協調外交や財閥の打破をめざす国家改造運動が活発となった。とりわけ、政党と財閥の癒着が非難をあび、金輸出の再禁止によるドル高・円安を見込んで、ドル買いにより巨額の利益を得たと噂された三井財閥は攻撃の的となった。