徳川綱吉 元禄時代 服忌令
徳川綱吉像(土佐光起画/徳川美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

元禄時代

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元禄時代

  • 側近
    • 前期(1680〜1684):大老堀田正俊
    • 後期(1688〜1709):柳沢吉保
  • 政策
    • 学問を奨励:湯島聖堂の建設など
    • 仏教の保護:護国寺・護持院建立など
    • 仏教への帰依:生類憐れみの令・服忌令
    • 財政政策:貨幣の改鋳(元禄金銀)
  • 結果
    • 貨幣経済がいっそう発展
    • 支出増で幕府財政が破綻
    • 貨幣価値の下落で物価騰貴

元禄時代

綱吉政権

側近前期(1680〜1684):大老堀田正俊
後期(1688〜1709):柳沢吉保
政策①学問を奨励:湯島聖堂の建設など
②仏教の保護:護国寺・護持院建立など
③仏教への帰依:生類憐れみの令・服忌令
④財政政策:貨幣の改鋳(元禄金銀)
結果①貨幣経済がいっそう発展
②支出増で幕府財政が破綻
③貨幣価値の下落で物価騰貴
参考:山川 詳説日本史図録 国内外の平和と安定を背景に、17世紀後半には5代将軍綱吉(1646〜1709)政権が成立した。前代からの大老酒井忠清(1624〜81)を排して、館林藩主綱吉の将軍擁立に功のあった堀田正俊(1634〜84)を大老に据えた綱吉は、まず農政を重視した。幕府財政の基礎の一つである幕領の百姓と農村の健全な管理を代官に強く命じ、これにしたがわない在地に根ざした代官を大量に処分した。 1683(天和3)年に、綱吉の代がわりの武家諸法度が発布された。1615(元和元)年の将軍秀忠による最初の発布以来、代々の将軍は第l条で「文武弓馬の道、もっぱ相嗜あいたしなむべき事」と命じてきた。綱吉はこれを改めて、「文武忠孝ちゅうこうを励し、礼儀を正すべき事」とした。武士に最も要求されたのは、武道を意味する「弓馬の道」から「忠孝」や「礼儀」へとかわったのである。主君に対する忠、父祖に対する孝、そして礼儀による上下の秩序が、平和な時代の支配の論理になった。この支配思想は儒教に裏づけられたもので、綱吉が湯島聖堂ゆしませいどうを建て、林信篤はやしのぶあつ鳳岡ほうこう 1644〜1732)を大学頭だいがくのかみに任じたのも儒教重視を物語っている。 この時期の幕府は、将軍の権威を高め、かつ平和な秩序を維持するために、天皇·朝廷の権威を利用した。家康以来、天皇・朝廷を統制の枠のなかに閉じ込めてきたが、それを維持しつつ、その上である程度は朝廷の儀式などを復活させ、尊重するようにした。前代にみられた伊勢例幣使石清水八幡宮放生会の再興に続いて、1687(貞享4)年、221年ぶりに大嘗会だいじょうえが、さらに94(元禄7)年、192年ぶりに賀茂葵祭かものあおいまつりが再興された。天皇即位の時の重要儀式である大嘗会は、1466(文正元)年に後土御門天皇が挙行したあと、9代の天皇が行えなかった。応仁の乱・戦国時代と続いた戦乱期にあって、朝廷の儀式の多くは中止せざるを得なかったのである。大嘗会は霊元上皇(在位1663〜87)の強い働きかけと幕府の判断で、東山天皇(在位1687〜1709)即位時に復活した。

大嘗会

大嘗会とは、天皇即位の儀式の一つで、即位の年の4月、悠紀ゆき国・主基すき国の国郡卜定ぼくていが行われ、ついで8月に大祓おおはらえ、9月に新穀の穂を抜く儀式、11月上旬に大嘗宮の設営が行われ、11月の卯の日、夜半より翌朝にかけて大嘗祭の秘儀が行われる。秘儀は、大嘗宮のなかの新天皇のもとに皇祖神天照大神が降臨して、天皇としての認知を行うと理解されてきた。その後、豊明節会とよのあかりのせちえなどが行われる。この7カ月に及ぶ儀式全体を江戸時代には大嘗会と呼んでいる。
このほか幕府は山陵の修理や禁裏御料の増献を行った。また、武家伝奏などの朝廷の人事についても、幕府の意向でまず人選したそれまでの方式を改め、朝廷がまず人選して、これを幕府の内意を得て決定するようにした。

松の廊下刃傷事件

江戸城松の廊下には、赤松が生える海原に千烏が飛び交うのどかな情景が襖絵に描かれていた。雅びやかなこの廊下で、1701(元禄14)年3月14日、刃傷にんじょう事件がおこった。勅使ちょくし院使いんしを迎える直前の緊迫した空気のなかで、勅使接待の馳走役浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのり(1667〜1701,赤穂城主、35歳)は高家こうけ吉良上野介義央きらこうずのすけよしなか(1641〜1702,61歳)に小刀をふるって刃偏に及んだ。吉良の逃げまどった跡には、松の廊下から桜の間にかけて、畳一面に血が散ったという。取り押えられた浅野長矩は、幕府により即日切腹が命じられ、さらに浅野家は断絶に処せられた。天皇からの勅使饗応きょうおうの儀礼が重視されるなかで発生したこの時代の武家社会の矛盾を象徴する事件であった。
もはや平和と社会の秩序は、動かしがたいものとなった。しかし依然として、過去の激動の時代の価値観(戦国の遺風)は屈折して残っていた。死を恐れず、戦場で武功をあげて上昇をはかる途の絶えた旗本や牢人たちは、無頼ぶらいかぶき者として、新たな儀礼的秩序のなかで、容易に旧来の価値観を転換できなかった。そのため秩序に抗して乱暴を働き、満たされぬ思いを社会にぶつけて解消しようとした。その風は、町人にも及び、無頼の及ぼす影響は幕府の支配にとって容認できぬものであった。

かぶき者

かぶき者は、近世初頭の1600年前後に歴史の舞台に登場した。「かぶく」という言葉は「かたぶく」と同義で、斜めになることをいい、異形・異装、あるいは通常とは異なる行動をとることを指している。1660年代のかぶき者には、旗本水野十郎左衛門らの旗本・御家人や奉公人の「旗本奴」がおり、町人の幡随院長兵衛らの「町奴」がこれに対抗した。幕府は1664(寛文4)年、異形の風体で登城した水野を切腹させた。
かぶき者の取締りは4代将軍家綱の代にも行われたが、5代将軍綱吉の代になって、1683(天和3)年から強引な検挙が開始され、86(貞享3)年、かぶき者の集団(大小神祇組じんぎぐみ)200余名を逮捕した。検挙者のうちには与力・同心や御家人の子弟が含まれ、リーダー格の11人は打首にされた。このほか幕臣の処罰は300件に及び、素行不良者などが摘発された。綱吉政権は、力の弾圧でかぶき者を取り締まったうえに、戦国以来の武力に頼って上昇をはかろうとする価値観を、生類憐み令服忌令ぶっきれいの二つの法令を出すことで、社会全体の価値観ごと変化させた。

犬喰い

かつて江戸では武家も町方も、下々の食べ物として犬にまさるものはなく、とくに冬場は犬をみかけしだいに殺して食べたという(大道寺友山『落穂集』)。会津藩の江戸屋敷で、奉公人たちが犬喰いをしていた話も残っている。これら犬喰いの事例は、いずれも生類憐み令以前のことで、元禄時代以降、今日まで犬喰いの習慣は日本にはない。社会の価値観変化の一例である。
幕府は、1687(貞享4)年から22年間にわたって、犬に限らず、小さな虫にいたる生類の殺生せっしょうや虐待を禁じた種々の法令を出し続けた。それらの法令の総称が「生類憐み令」である。例えば、犬の喧嘩には水をかけて怪我をさせぬように引き分けること、と命じた。これを脇差わきざしを抜いて引き離し、そのあげくに犬を切ったということで、八丈島に流罪になった例などがある。また生類の対象は、これら動物だけではなく、捨て子、捨て病人の禁制や行倒れ人の保護など、人間の弱者にも向けられたことは注目される。殺生を禁じ、生あるものを放つ、仏教の放生ほうじょうの思想に基づく生類憐み令は、権力による慈愛の政治という一面をもっている。しかし、武士・農民・町人など大部分の人々にとって、行き過ぎた動物愛護の命令は迷惑なものであった。とくに江戸の四谷・大久保・中野につくられた犬小屋の犬の飼育料を負担させられた関東の農民や江戸町人の迷惑は大きかった。 生類憐み令と同時期に服忌令ぶっきれいも出された。服忌令とは喪に服す服喪と、けがれを忌む忌引きびきのことで、近親者が死んだときなどに穢れが生じたとして、服喪日数や穢れがなくなるまで自宅謹慎している忌引の日数を定めた。例えば、父母が死んだ場合には忌が50日、服が13カ月と規定された。1684(貞享元)年に発令されたあと、93(元禄6)年まで5回も追加補充された。養父母の場合は何日か、などと問い合わせがなされ、事細かに追加がなされたためであるが、綱吉政権の服忌令制度化に向けた強い意欲がうかがえる。

服忌の歴史

室町時代の公卿三条西実隆は、歌人としても学者としても有名である。その日記『実隆公記』の1505(永正2)年の記事に、同家に永年仕えてきた下女が病気で、もはや助かる見込みがないとみるや、寒風甚だしい夜半に鴨河原に下女を捨てたと記されている。死んだときに家屋敷が穢れるのを恐れたためである。このような服忌の考え方は、「大宝令」の制定以来、公家や神社に存在してきたもので、武士世界のものではなかった。
服忌令ぶっきれいは、武家はもちろん百姓や職人・町人にいたるまで知らされ、死や血を穢れたものとして排除する考え方を広く社会に浸透させていった。綱吉政権は生類憐み令服忌令の両者を同時に徹底させることで、戦国時代以来の人を殺すことが価値であり、主人の死後、追腹おいばらを切ることが美徳とされた武士の論理や、よその飼い犬を殺すなどの無頼行為のかぶき者の存在ともども、最終的に否定した。 この生類憐み令や服忌令の影響は、殺生や死を遠ざけ、忌み嫌う風潮をつくり出した。その結果、死んだ牛馬を片づける皮多かわた長吏ちょうりや、町や堀などの清掃に従事し、清めにたずさわる非人ひにんの仕事が、以前にも増して社会的に必要かつ重要な役割として位置づけられることになった。このように社会的に不可欠な役割を果たしながら、その仕事に穢れ感がつきまとうとの考え方も広まり、皮多・長吏や非人の人々を忌み遠ざけるという誤った差別意識も強化されてしまった。

皮多・長吏と「穢多」

畿内や西日本の多くでは皮多かわた(革多とも)、関東や東国では長吏ちょうりと呼ばれ、死牛馬の処理や行刑役を担う人々に対し、この時期以降、幕府領主の公文書では、穢れ多いという賤視と差別を含む「穢多えた」という身分呼称を用いさせた。その後も彼らは自ら「様多」とは称さずに、あくまでも皮多や長吏と自称する。「穢多」とは差別する側が用いた言葉であることを認識する必要がある。
綱吉は、儒教のほかに仏教・神道・陰陽道を支持して、寺社の造営も大いに行った。壮大な護国寺護持院を建立したほか、東大寺大仏殿の再建や法隆寺諸堂の修復、寛永寺本坊の再建を行った。伊勢神宮熱田社などの神社造営や湯島聖堂の建立も行った。これらの費用は、諸大名の手伝普請てつだいふしんや全国勧化かんげに依存するものもあったが、幕府の自普請も多く、1685(貞享2)年の日光山堂社修復に金1万4327両、翌年の熱田社には金9114両を江戸の金蔵から支出している。そのほか、幕府は1688(元禄元)〜96(元禄9)年の間に、延べ34寺社の普請に約22万9269両の支出を行っている。綱吉政権期の寺社造営、修復費は、およそ70万両との計符もある。 江戸幕府初期から続いた比較的豊かだった鉱山収入も、この時期に減少し、金銀の産出量低下はただちに幕府財政の収入減につながった。また明暦の大火後の江戸城や市街の再建費用と、引き続く元禄期の寺社造営費用は、大きな支出増となって幕府財政の破綻を招くことになった。
勘定吟味役かんじょうぎんみやく(のちに勘定奉行)荻原重秀おぎわらしげひで(1658〜1713)は、財政収入増の方策として、貨幣改鋳を上申し、側用人柳沢吉保(1658〜1714)を経て、これを綱吉は聞き入れた。そして、従来の慶長小判に含まれていた金の比率(84%)を減らして、57%の金含有率の元禄小判を鋳造し、発行したのである。小判の増量で、幕府は500万両の増収をあげたが、貨幣価値の下落と物価の騰貴を引きおこし、人々の生活は圧迫された。
元禄小判 荻原重秀
元禄小判(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
さらに1707(宝永4)年11月には、富士山が大噴火した。前日から地震が繰り返され、つに爆発した富士山からの降砂こうさは、遠く上総かずさ下総しもうさ安房あわにも及んだ。その手前の武蔵·相模・駿河国では、砂は深く降り積り、被害は甚大であった。 幕府は復興のために、全国に諸国高役金しょこくたかやくきんを掛けた。高100石につき金2両ずつの割合で、復興金を納めるように命じたのである。全国津々浦々から集められた国役金は、約49万両となった。このうち実際の復旧に金6万3000両が支出されたことは明記されているが、残りの40数万両はほかに流用された可能性がある。全国からの国役金徴収のように、強い将軍権力と勘定奉行荻原重秀の不明朗が同居した、綱吉政権の最末期であった。