元禄小判 荻原重秀
元禄小判(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

荻原重秀


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荻原重秀 おぎわらしげひで( A.D.1658〜A.D.1713)

江戸幕府の旗本。勘定奉行。勘定所下役から勘定吟味役を経て勘定奉行に出世。将軍綱吉から将軍家宣時代の深刻な幕府財政難打開のため貨幣改鋳を実施。金銀含有量の少ない元禄小判を発行。幕府は500万両の増収をあげたが、貨幣価値の下落と物価の騰貴を引きおこした。新井白石の執拗な攻撃で1712年(正徳2)に罷免される。

荻原重秀

貨幣改鋳を断行した経済官僚

勘定奉行。勘定所下役から勘定吟味役を経て勘定奉行に出世する。将軍綱吉から将軍家宣時代の深刻な幕府財政難打開のため貨幣改鋳を実施。金銀含有量の少ない元禄金銀を発行、その差益で幕府財政の立て直しを図ったが、新井白石の執拗な攻撃で1712年(正徳2)に罷免される。

ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで

幕藩体制の展開

幕政の安定

元禄時代

江戸幕府初期から続いた比較的豊かだった鉱山収入も、この時期に減少し、金銀の産出量低下はただちに幕府財政の収入減につながった。また明暦の大火後の江戸城や市街の再建費用と、引き続く元禄期の寺社造営費用は、大きな支出増となって幕府財政の破綻を招くことになった。

勘定吟味役かんじょうぎんみやく(のちに勘定奉行)荻原重秀おぎわらしげひで(1658〜1713)は、財政収入増の方策として、貨幣改鋳を上申し、側用人柳沢吉保(1658〜1714)を経て、これを綱吉は聞き入れた。そして、従来の慶長小判に含まれていた金の比率(84%)を減らして、57%の金含有率の元禄小判を鋳造し、発行したのである。小判の増量で、幕府は500万両の増収をあげたが、貨幣価値の下落と物価の騰貴を引きおこし、人々の生活は圧迫された。

さらに1707(宝永4)年11月には、富士山が大噴火した。前日から地震が繰り返され、つに爆発した富士山からの降砂こうさは、遠く上総かずさ下総しもうさ安房あわにも及んだ。その手前の武蔵·相模・駿河国では、砂は深く降り積り、被害は甚大であった。

幕府は復興のために、全国に諸国高役金しょこくたかやくきんを掛けた。高100石につき金2両ずつの割合で、復興金を納めるように命じたのである。全国津々浦々から集められた国役金は、約49万両となった。このうち実際の復旧に金6万3000両が支出されたことは明記されているが、残りの40数万両はほかに流用された可能性がある。全国からの国役金徴収のように、強い将軍権力と勘定奉行荻原重秀の不明朗が同居した、綱吉政権の最末期であった。

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