元禄期の文学
元禄期の文学は上方の町人文芸が中心で、松尾芭蕉・井原西鶴・近松門左衛門がその代表である。
- 松尾芭蕉 俳諧『七部集』・俳文『奥のほそ道』
- 井原西鶴 浮世草子『好色一代男』(好色物)・『武道伝来記』(武家物)・『日本永代蔵』(町人物)
- 近松門左衛門 浄瑠璃脚本『曽根崎心中』(世話物)・『国性爺合戦』(時代物)
元禄期の文学
元禄期の文芸
小説 | 仮名草子 | 浅井了意 | 『東海道名所記』 |
浮世草子 | 井原西鶴 | 『好色一代男』『好色五人女』(好色物) 『武家義理物語』『武道伝来記』(武家物) 『日本永代蔵』『世間胸算用』(町人物) |
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俳諧 | 貞門派 | 松永貞徳 | 『御傘』(古風、俳諧の規則を定める) |
談林派 | 西山宗因 | 『西翁十百韻』(新風、自由・軽快) | |
蕉風 | 松尾芭蕉 | 『俳諧七部集』(冬の日・春の日など) | |
俳文 | 松尾芭蕉 | 『野ざらし紀行』『笈の小文』『奥のほそ道』 | |
脚本 | 浄瑠璃 | 近松門左衛門 | 『曽根崎心中』『心中天網島』『冥途の飛脚』(世話物) 『国性爺合戦』(時代物) |
古典 | 契沖 | 『万葉代匠記』 | |
北村季吟 | 『源氏物語湖月抄』 |
元禄期の文学は上方の町人文芸が中心で、松尾芭蕉(1644〜94)・井原西鶴(1642〜93)・近松門左衛門(1653〜1724)がその代表である。
俳諧
芭蕉以前の俳諧には、江戸時代初期の松永貞徳(1571〜1653)を代表とする貞門派がある。連歌師の家に生まれた貞徳は、俳諧を独立した形式に高めたものの、その句は形式に流れ、平板で緊張感に欠けるものであった。続いて西山宗因(1605〜82)を中心とする談林俳諧が登場する。貞門派の様式を破り、自由・清新な旬を詠んだ宗因ではあったが、彼の弟子には目新しさを追究するだけで放逸に走った者が多く、宗因は納得できぬまま他界し、談林風俳諧も消えていった。
松尾芭蕉は、貞門の技巧と談林の自由な描写力の両方に学んだ。寂び(自然にとけこんだ枯淡の心境)、栞(十分な余情をつつむリズム)・細み(繊細な味)で示される幽玄閑寂に価値をおく蕉風と呼ばれた芭蕉の俳諧は、単に室町時代からの連歌の発句の位置しか与えられなかった段階から、独立した芸術に高められた。芭蕉は『野ざらし紀行』や『奥の細道』などの紀行文を残しているように、全国を紀行して自然のなかに広く素材を選んだ。三都に限らず、地方の農村部にも芭蕉や弟子の一行を待ち受け、支えた人々が存在したことは、これまでにない文化の広がりを感じさせる。榎本其角(1661〜1707)·服部嵐雪(1654〜1707)・各務支考(1665〜1731)・向井去来(1651〜1704)らの弟子は「焦門の十哲」と呼ばれたが、芭蕉の死後、多くの派に分裂した。
浮世草子
井原西鶴は大坂の町人出身で、当初は談林俳諧に身をおいて、自由奔放な作句を行い、大いに才能を誇示したが、俳諧そのものの芸術性を示すにはほど遠かった。西鶴の類いまれな創造力が発揮されたのは、新しい文学の分野である「浮世草子」(小説)においてである。江戸時代初期からの仮名草子は、小説のほか宗教書·教訓書などの総称であるが、浅井了意(1612?〜91)の作品などは、いずれも武士身分を読者として想定されたものであった。これに対して西鶴の「浮世草子」と総称される小説の数々は、広く町人層を読者対象とした。西鶴の作品は大きく好色物・町人物・武家物の三つにわけることができる。好色物は『好色一代男』『好色五人女』『好色一代女』などである。1682(天和2)年に書かれた『好色一代男』は主人公世之介の7歳から60歳までの色道遍歴を描写したもので、そのような主人公はそれ以前の文学にはかつて存在しなかった。『好色五人女』は5人の女主人公の恋愛事件を描いた作品だが、この女性はいずれも商家の女たちで、江戸時代の市井の身近な女性の情熱的な性を描いた傑作であった。
西鶴の町人物には『日本永代蔵』や『世間胸算用』などがある。そのなかで最も傑作とされる『日本永代蔵』は、財をなした町人の物語30話を集め、商人の道はひたすら銭もうけにあり、勤倹貯蓄、信用、オ覚や忍耐力を美徳として繰り返し説く。ー方、『世間胸算用』は大晦日を舞台に、かつかつに世を生きる人々の姿を20の物語に活写する。これらの町人物と対照的に、西鶴は武家物で武士の道を描く。『武道伝来記』や『武家義理物語』などである。『武道伝来記』は、敵討ちを共通題材に32編を、『武家義理物語』は武士にとって望ましい義理を25の挿話にまとめあげ、義理のためには命を縮めることもある、それが武士の世界だと説く。
浄瑠璃・歌舞伎
近松門左衛門は京都近くの武士の出身であったが、若いころから文学に親しみ、当時流行していた人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた。近松の作品は、当時の世相に題材を求めた世話物や、歴史上の説話や伝説に題材をとった時代物などがある。世話物には、実際あった恋人同士の相対死を意味する心中(情死)を素材にし1703(元禄16)年初演の『曽根崎心中』や、『心中天網島』『冥途の飛脚』などが、代表作としてある。義理と人情の葛藤のあげく心中した2人が、この世では得られなかった幸せを来世に求める姿が感動を呼んだ。時代物には、『出世景清』などもあるが、『国性爺合戦』が代表作である。明(王朝)の王位回復を願う実在の鄭成功(国姓爺)をモデルに、主人公和藤内(平戸に住む漁師)が韃靼(清)を倒し、明を再興して、ひいては日本の国威を発揚するという筋立てである。東アジア世界を舞台に、和藤内を縦横に活躍させるこの人形浄瑠璃の上演は、みる者をして現実の明滅亡と日本の国家を意識させたに違いあるまい。
江戸時代に入って能や狂言は将軍や大名の前で演じられ続けたが、広範な人々に享受されることはなく、茶の湯と同様に支配層のまねをした一部の町人の鑑賞にとどまった。つまり、能·狂言はすでに古典芸能の仲間入りをしていたともいえる。これに対して歌舞伎と浄瑠璃は、町人生活のなかにとけ込み、支持されて発展した。歌舞伎は、江戸時代初期に風俗取締りのうえから女歌舞伎、ついで若衆歌舞伎が禁止され、男女すべての役を男優だけで演じる野郎歌舞伎だけが元禄時代以降には行われた。これは歌舞から演劇への転換ともなり、文学(脚本)とのかかわりも始まる。常設の芝居小屋も京都に3座、大坂に4座、江戸に4座おかれた。江戸では荒事と呼ばれる勇壮な演技で名をはせた初代市川団十郎(1660〜1704)、上方では和事と呼ばれる恋愛劇を得意とする坂田藤十郎(1647〜1709)や女形の代表とされる芳沢あやめ(1673〜1729)らの名優が活躍した。
しかし近松の作品は、脚本が忠実に演じられる人形浄瑠璃にこそ、その味わいが生まれた。辰松八郎兵衛(?〜1734)らの人形遣いと、竹本義太夫(1651〜1714)らによって語られる浄瑠璃は、歌舞伎以上の共感を人々に与えた。また義太夫の語りは、義太夫節という独立した音曲に成長していった。