朱印船貿易地図 初期の外交
朱印船貿易地図 ©世界の歴史まっぷ

初期の外交

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初期の外交

  • 1600(慶長5)年、オランダ船リーフデ号が豊後の臼杵湾に漂着。家康は、リーフデ号のオランダ人航海士ヤン゠ヨーステン(耶揚子)と水先案内人のイギリス人ウィリアム゠アダムズ(三浦按針)を江戸に招いて外交・貿易の顧問とし、本国との通商を斡旋した。
  • 1609(慶長14)年、ルソンの前総督ドン=ロドリゴが上総に漂着。翌年スペインとの貿易復活。伊達政宗は、支倉常長をスペインに派遣慶長遣欧使節)。
  • 1604(慶長9)年、幕府は糸割符制度を制定

初期の外交

1600(慶長5)年、オランダ船リーフデ号豊後ぶんご臼杵湾うすきわんに漂着した。当時、ヨーロッパでは毛織物工業が発達したイギリスと、16世紀後半にスペインから独立したオランダの2カ国が台頭し、国家の保護のもとに相ついで東インド会社を設立し、スペイン・ポルトガルが優勢であったアジアヘ進出しようとしていた。

徳川家康は、リーフデ号に乗り組んでいたオランダ人航海士ヤン゠ヨーステン(Jan Joosten, ?〜1623、耶揚子)と水先案内人のイギリス人ウィリアム゠アダムズ(William Adams, 1564〜1620、三浦按針)を江戸に招いて外交・貿易の顧問とし、それぞれ本国との通商を斡旋させた。

アダムズは三浦半島に領地を与えられて三浦按針といい、江戸日本橋に屋敷を与えられた。ー方ヨーステンの屋敷地は海に近く、耶揚子やようす河岸と呼ばれ、それが現代の八重洲の地名に転訛した。
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オランダは1609年に、イギリスは1613年に平戸に商館を開くことが許され、日本との貿易を行ったが、とくにオランダ商館の活動は活発であった。紅毛人こうもうじんと呼ばれたオランダ・イギリス人が、カトリック(旧教)教徒の南蛮人(スペイン・ポルトガル人)とは異なりプロテスタント(新教)を信仰していたことが、幕府に歓迎された理由であった。しかし、イギリスはオランダとの競争に敗れ、むしろ目標をインドにおいて、1623(元和9)年、平戸の商館を閉鎖して日本を離れた。

家康はスペインとの貿易にも積極的であった。1596(慶長元)年のサン゠フェリペ号事件以来絶えていたスペインとの関係は、1609(慶長14)年、たまたまルソンの前総督ドン=ロドリゴ(Don Rodrigo, ?~1636)が上総に漂着し、これを翌年メキシコ(ノビスパン Nueva Espaia)に送ったのを機に復活した。このとき、京都の商人田中勝介(生没年不詳)が同行し、貿易の開始と鉱山技師の派遣とを要請した。田中らは、最初にアメリカ大陸に渡った日本人とされている。翌年、答礼使とうれいしが来日したが、貿易交渉は不調に終わった。

また仙台藩主伊達政宗(1567~1636)は、宣教師ルイス゠ソテロ(LuisSotelo, 1574~1624)の勧めもあって、家臣の支倉常長はせくらつねなが(1571~1622)をスペインに派遣して、メキシコと直接に貿易を開こうとした。1613(慶長18)年、支倉常長は陸奥月ノ浦を出発し、メキシヨ・スペイン・ローマに行き、ローマ教皇に謁した(慶長遣欧使節)。1620(元和6)年に帰国したが、貿易交渉の目的は達成されなかった。

ポルトガルは、マカオを根拠地に中国産の生糸(白糸)を長崎に運んで、巨利を得てきた。これに対して、幕府は1604(慶長9)年に糸割符制度いとわっぷせいどを設け、糸割符仲間と呼ばれる特定の商人に輸入生糸を一括購入させて、ポルトガル商人らの利益独占を阻んで、打撃を与えた。

糸割符制度

糸割符とは、輸入生糸の専売特権の証札しょうさつのことである。特定の商人が集まって糸割符仲間をつくり、毎年春に輸入生糸の価格を決定して一括購入したのち、仲間に分配した。はじめは京都・堺・長崎の商人たちであったが、のちには江戸・大坂の商人が加わって五カ所商人と呼ばれた。この制度は、1631(寛永8)年に中国人に、1641(寛永18)年にオランダ人にも及ぼされたが、のちに五カ所商人が損失をこうむったので、1655(明暦元)年に停止された。

日本人の海外進出は豊臣政権下に続いて盛んで、ルソン・東京トンキン・アンナン・カンボジア・シャムなどに渡航する商人らの船は多かった。幕府は海外渡航許可の朱印状を与えたのでこの船を朱印船という。朱印状は1604(慶長9)年から1635(寛永12)年までに350通余りが発行された。朱印船を出して貿易利益をあげた者としては、105名の名前がわかっており、大名では島津家久(1576〜1638)・松浦鎮信まつうらしげのぶ(1549〜1614)・有馬晴信らがおり、商人では長崎の末次平蔵すえつぐへいぞう(?〜1630?)・摂津の末吉孫左衛門(1588〜1639)・京都の角倉了以すみのくらりょうい(1554〜1614)や茶屋四郎次郎、堺の納屋助左衛門(生没年不詳)・松坂の角屋七郎兵衛(1610〜72)らがいた。これら日本人の朱印船貿易は、オランダ船・明船をしのぎ、ポルトガル船に匹敵するほど盛んな時期もあった。また、輸出には銀・銅・鉄・樟脳しょうのうなどがあてられたが、とくに銀の輸出額は世界の銀産出額の3分の1に及んだ。

この約30年間で海外に渡航した日本人の数は約10万人と推定されるが、そのうち約7000人〜l万人は東南アジア各地の約20カ所に居住し、自治制を敷いた日本町を形成した場合もあった。日本町は、ベトナムのツーランやフェフォ、カンボジアのプノンペンやピニャルー、アユタヤ朝(シャム)のアユタヤ、ビルマのアラカン、マニラ郊外のディラオやサン゠ミゲルの都合8カ所あった。アユタヤの山田長政(?〜1630)のように、アユタヤ朝の王室に用いられ、日本町のおさや隣国リゴールの太守(長官)となった者もいた。

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