北山文化
室町時代の文化は、武家政権を確立した3代将軍義満の時代に開花した。将軍にして初めて太政大臣にのぼり、名実ともに公家・武家の頂点に立った義満の時代にふさわしく、その文化は武家文化と公家文化の融合という点に大きな特色をもっている。義満は京都の北山に壮麗な山荘:(北山殿)をつくったが、そこに建てられた金閣(鹿苑寺金閣)の建築様式が、伝統的な寝殿造や禅宗寺院の禅宗様など、さまざまな文化を折衷したものであり、この文化の特徴をよく表しているので、この時代の文化を北山文化と呼んでいる。
北山文化
室町時代の文化は、まず武家政権を確立した
3代将軍義満の時代に開花した。
将軍にして初めて太政大臣にのぼり、名実ともに公家・武家の頂点に立った義満の時代にふさわしく、その文化は武家文化と公家文化の融合という点に大きな特色をもっている。義満は京都の北山に壮麗な山荘:(北山
殿)をつくったが、そこに建てられた
金閣(鹿苑寺金閣)の建築様式が、伝統的な
寝殿造や禅宗寺院の
禅宗様など、さまざまな文化を折衷したものであり、この文化の特徴をよく表しているので、この時代の文化を
北山文化と呼んでいる。
金閣
金閤は北山殿の仏殿として建てられた3層の
楼閣建築で当初は
舎利殿と呼ばれていた。1層を寝殿造風に、2層を
和様に、3層を禅宗様につくり、西側には寝殿造に特徴的な
釣殿風の建物を付属させている。北山殿は、義満の死後、
鹿苑寺という禅宗寺院にかわったため、金閣も
鹿苑寺金閣と呼ばれるようになった。
義満も、祖父尊氏の
天竜寺にならって
相国寺を建立するなど、
臨済宗をあつく保護したほか、寺格の整備にもつとめ、南宋の
官寺の制にならって
五山・十刹の制を確立した。
五山の制は、鎌倉時代末期に
北条貞時(1271~1311)が鎌倉の禅寺に導入したのが最初で、その後、後醍醐天皇や足利直義らもそれぞれに五山・十刹を定めたが、義満のときに、
南禅寺を五山の上とし、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺を鎌倉五山とする体制が固まった。十刹とは五山につぐ官寺のことで、中国では文字通り10カ寺であったが、日本では寺数制限がなく、全国各地に10カ寺以上定められた。さらに十刹についで
諸山(
甲刹)があったが、その数は中世末期には230カ寺にも達している。幕府は
僧録(
僧録司)をおいて、官寺を管理し、住職などを任命した。初代僧録には疎石の弟子であった
春屋妙砲(1311〜88)が任命されたが、その後僧録は相国寺
鹿苑院におかれたので鹿苑僧録とも呼ばれるようになった。
この五山の禅寺を中心に禅俯たちによる中国文化の影響の強い文化が生まれ、武家文化の形成にも大きな影響を与えた。禅僧たちには中国からの渡来僧や中国で学んだ留学僧が多く、彼らは禅だけでなく禅の精神的境地を具体化した
水墨画・建築様式などを広く伝えた。水墨画では、南北朝時代にも
黙庵や
可翁らがすでに活躍していたが、この時代になると、『
五百羅漢図』などを描いた
明兆(
兆殿司 1352〜1431)、妙心寺
退蔵院の『
瓢鮎図』で知られる
如拙(生没年不詳)、如拙の弟子で『
寒山拾得図』『
水色巒光図』などを描いた
周文(生没年不詳)ら、多くの優れた画僧が登場した。また五山の禅僧たちの間で宋学の研究や漢詩文の創作も盛んになり、足利義満のころ
絶海中津(1336〜1405)·
義堂周信(1325〜88)らが出て、いわゆる五山文学の最盛期を迎えた。彼らは、中国文化に対する豊富な知識から都府の政治・外交顧問としても活躍し、中国・朝鮮に対する外交文書の起草なども行った。このほか、
五山版と呼ばれる禅の経典・漢詩文集などの出版事業も行うなど、中国文化の輸入に禅僧たちが果たした役割はきわめて大きかった。
1403(応永10)年に義満が「日本国王臣源」の署名で明皇帝に送った国書も、絶海中津の起草になるものであった。
現在、伝統芸術として盛んに演じられている
能(能楽)もまた、北山文化を代表するものである。古く神事芸能として出発した猿楽や田楽は、歌舞・物まね・曲芸、演劇など、さまざまなジャンルの芸能を含んでいたが、能はそのうちの演劇、歌舞を中心に発達したもので、猿楽・田楽それぞれの系譜を引く
猿楽能・
田楽能が各地で競い合うように演じられた。寺社の建立や修理を名目として入場料をとる
勧進能も興行されるようになり
小面・
翁・
尉などさまざまな種類の
能面もつくられた。
能楽師は、このころ寺社の保護を受けて
座を結成し、能を演じる専門的な芸術集団が形
されたが、興福寺を本所とする観世座(結崎座)・宝生座(外山座)・金春座(円満井座)・金剛座(坂戸座)の、いわゆる
大和猿楽四座はその代表的なものであった。その一つ
観世座に出た
観阿弥(清次、1333〜84)・
世阿弥(元清、1363?〜1443?)父子は、将軍義満・義持らの保護を受け、近江猿楽や田楽能などほかの芸能集団と競いながら洗練された芸の美を追究し、芸術性の高い猿楽能を完成した。
以後観世座が演じる能を観世能、観世座の座長を観世大夫と呼んだ。こうして観世座が隆盛を迎えた一方、近江猿楽や田楽能はしだいに衰退し、以後、能といえばほぽ観世能を中心とする大和猿楽の猿楽能のみを指すようになった。世阿弥は
足利義教のとき、不興をかって佐渡に流されたが、観阿弥·世阿弥父子は、「
砧」「
井筒」など、能の脚本である
謡曲を数多く書くとともに世阿弥は、能の神髄を述べた『
風姿花伝(
花伝書)』や『
花鏡』などの理論書を残し、能の大成者となった。また世阿弥の次子
元能が世阿弥の談話を筆録した『
申楽談儀』には能楽の歴史や当時の人気能楽師に対する世阿弥の批評などがみえている。
猿楽と田楽
猿楽は滑稽なしぐさや物まねから始まった芸能であり、古代に唐から伝わった散楽が語源とされている。猿楽能の直接の起源とみられているものの一つに呪師猿楽と呼ばれるものがある。これは寺院での法会の際に猿楽師が鬼の面などをつけて悪魔払いを行ったもので、そこで用いられた面がのちの能面の原型となったと考えられている。一方、田楽はびんざさらや腰鼓などの楽器を用いた群舞から始まった芸能である。いずれも、曲芸や演劇などさまざまな要素を取り入れながら発達し、やがてそのなかから演劇のかたちをとる猿楽能・田楽能が流行するようになった。
室町文化一覧表