幣原外交 協調外交の展開
幣原外交 ©世界の歴史まっぷ

協調外交の展開

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協調外交の展開

加藤高明内閣から第2次若槻内閣の幣原外相がおこなった協調外交(幣原外交)は、対米協調と対中国内政不干渉政策の実施に努力した。しかし日本の軍部の急進派や国家主義団体などは、ワシントン体制を米・英が日本の対外発展をおさえるものと考え、協調外交や軍縮政策に反対する声もかなりあった。

協調外交の展開

協調外交の展開
財政支出における軍事費の比率の推移 -山梨軍縮・宇垣軍縮 ©世界の歴史まっぷ
ワシントン海軍軍縮条約(海軍軍備制限条約) は、1922(大正11)年8月に発効し、加藤友三郎内閣(加藤が海相を兼任)のもとで、老朽艦の廃棄や戦艦の建造中止など海軍軍縮が実施された。引き続いて、日本国内では陸軍軍縮も問題となり、1922(大正11)年、同内閣の山梨半造やまなしはんぞう (1864〜1944)陸相のもとで、約6万人の兵力削減が実施され(山梨軍縮)、ついで1925(大正14)年、加藤高明内閣のとき、宇垣一成うがきかずしげ (1868〜1956)陸相のもとで4個師団廃止が実現するなど、陸軍の軍縮と合理化が行われた(宇垣軍縮)。陸軍はこのとき、師団を削減すると同時に、航空部隊や戦車部隊を新設・増設するなど、装備の近代化をはかった。また、整理された将校の失業対策と国防観念の普及をはかって、中学校以上の学校で軍事教練が正課となり、配属将校が配置された。軍縮の結果、1921(大正10)年度には国家の歳出(一般会計)中の49%を占めていた軍事費が、1926(大正15)年度には27%と大幅に減少した。
加藤友三郎内閣
加藤友三郎内閣 ©世界の歴史まっぷ

加藤高明内閣
加藤高明内閣 ©世界の歴史まっぷ

ワシントン会議以後、ほぼ1920年代を通じて、日本政府は国際協調、とくにアメリカとの協調関係の確保に努力し、貿易の振興など経済外交を重んじた。当時、アメリカは日本にとって最大の貿易相手国であり、1920年代半ばころで、日本の総輸出額の約40%がアメリカ向けの、また総輸入額の30%近くがアメリカからの商品であった。したがつて、日本にとって、とりわけアメリカとの友好関係の維持は、最も重要視された。1924(大正13)年、加藤高明内閣(幣原喜重郎しではらきじゅうろう外相)成立後まもなく、アメリカにおいて新移民法(いわゆる排日移民法)が実施され、日本人移民がアメリカに入国することが事実上できなくなるなど、相互に国民感情を悪化させる事件がおこったが、外交レベルにおける日米両国の協調関係は維持された。また、日本政府は幣原外相のもとで、中国に対して内政不干渉政策をとり、とくに武力的干渉を行わない方針を保ち、1927(昭和2)年、国民革命軍の勢力が長江流域に及び、イギリスが日本に共同出兵を提案したり、南京の日本総領事館が国民革命軍の襲撃を受けたときも、出兵しなかった。さらに、革命以来国交の絶えていたソ連とも、1925(大正14)年、加藤高明内閣のとき、日ソ基本条約が結ばれ、日ソの国交が樹立された。

幣原外交
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幣原外交

ワシントン会議の全権団に加わった幣原喜重郎は、1924(大正13)年6月、護憲三派の加藤高明内閣の外務大臣に就任してから、1931(昭和6)年12月、第2次若槻内閣の退陣によってその地位を去るまで、立憲政友会の田中義一内閣時代(1927年4月〜29年7月)を除いて、4代の内閣で通算5年余りにわたり憲政会、立憲民政党系内閣の外相をつとめ、協調外交を推進し、対米協調と対中国内政不干渉政策の実施に努力した。それゆえ、幣原外相によって推進されたこの時期の協調外交を、幣原外交とも呼ぶ。

こうした協調外交は、第一次世界大戦後の国際平和に期待をかける世界的風潮を背景に、列国の国際協力と軍縮政策のもとで、ひとまず順調に推進された。軍縮会議はその後も何回か間かれ、1927(昭和2)年のアメリカ・イギリス・日本による補助艦制限のためのジュネーヴ軍縮会議は意見の一致をみずに失敗したが、1928(昭和3)年には、パリで日本を含めた世界の主要15カ国の間に不戦条約が締結された。また、1930(昭和5)年には、ロンドン海軍軍縮会議が開かれ、米・英·日3カ国の間に補助艦の保有量制限が協定されるなど、1930年代初めまで国際協調の時代が続いた。

しかし、日本の軍部の急進派や国家主義団体などの間には、ワシントン体制をアメリカ・イギリスが日本の対外発展をおさえようとするためのものと考え、協調外交や軍縮政策に反対する声もかなりあった。

軍縮と軍人の反発

日露戦争後、軍人の人気が高かった時代に職業軍人への道を志した少年たちが、やがて将校として一人前になるころ、軍縮の時代がやってきた。兵力の削減が進むにつれ、軍人は出世の道をせばめられ、失業の不安にさらされるようになった。世間の目は厳しくなり、軍人の社会的地位は低下した。とりわけ都市では、軍人が軍服姿で街のなかを歩くことがはばかられるような雰囲気が広がったという。陸軍の4個師団削減により廃止されることになる第15師団(豊橋)の師団長田中国重は、先輩への手紙のなかで、結婚が決まっていた若い将校のなかには、軍縮が始まったため婚約者の女性の側からの申し出で破談になった例もあるとして、軍縮により将校たちが動揺し、師団内の士気が低下していることを嘆いている。こうした世間の風潮に対する反発が、やがて政府の手で推進された協調外交や軍縮政策に不満をいだき、テロやクーデタでそれを打破しようとする急進派軍人たちの直接行動を生み出す背景になったと考えられる。

ワシントン会議
国際協調時代の条約 ©世界の歴史まっぷ
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