東アジア諸国との交渉
4世紀後半になると、高句麗がさらに南進策を進めるようになり、新羅や百済・加耶を圧迫するようになった。鉄資源を確保するため早くから加耶と密接な関係をもっていた倭国(ヤマト政権)も、百済・加耶とともに高句麗と戦うこととなった。
東アジア諸国との交渉
中国大陸では、三国時代(中国) の魏の王朝を受け継いだ晋(265〜316)が280年に呉を滅ぼして中国全土を統一した。
しかし、4世紀初めには匈奴をはじめとする北方の諸民族の侵入を受けて南に移り、中国の北半部は五胡と呼ばれる北方騎馬民族が支配する五胡十六国の時代となり、南北分裂の南北朝時代を迎える。
後漢の滅亡(220年)以降、中国が分裂抗争の時代を迎えたいわゆる魏晋南北朝時代は、その周辺の諸民族に対する支配力が弱まり、東アジアの諸民族はつぎつぎと中国の支配から離れて国家形成へと進んだ。
中国東北部からおこった高句麗(前47?〜668)は、しだいに朝鮮半島北部にまで領土を拡大し、313年には中国の植民地であった楽浪郡を滅ぼした。
また、朝鮮半島南部では、3世紀には馬韓・弁韓・辰韓という小国の連合が形成されていたが、4世紀になると馬韓から百済が、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成した。ただ弁韓は統一されることなく、加耶(加羅)と呼ばれる小国連合が5〜6世紀まで続いた。
『日本書紀』ではこの加耶諸国やさらにその東の地域を「任那」と呼び、倭国(日本)の植民地であったように記述する。加耶と倭の関係が密接であったことは確かであるが、加耶諸国はぞれぞれ独立した小国群であり、書紀の記載は明らかに誤りである。
さらに4世紀後半になると、高句麗がさらに南進策を進めるようになり、新羅や百済・加耶を圧迫するようになった。鉄資源を確保するため早くから加耶と密接な関係をもっていた倭国(ヤマト政権)も、百済・加耶とともに高句麗と戦うこととなった。
当時、高句麗の都であった丸都(中国吉林省集安市)にある高句麗の好太王(広開土王)碑の碑文には、倭が高句麗と直接交戦したことが記されている。
好太王碑は、高句麗の好太王(広開土王)一代の事績を記した高さ6.34mの大きな石碑で、そのなかに「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」(百済新羅は旧是れ属民なり。由来朝貢す。而るに倭、辛卯の年(391年)よりこのかた、海を渡りて百済を破り新羅を…し、以って臣民と為す。)と記されている。
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この朝鮮半島における高句麗の騎馬軍団との戦いは、それまで乗馬の風習がなかった倭人たちに、いやおうなしに騎馬の技術を学ばせたようで、馬具が百済や加耶などからもたらされるとともに、百済・加耶から渡来した技術者によって日本列島でも馬具や馬匹の生産が開始される。
こうして5世紀になると日本列島の古墳にも、それまでみられなかった馬具が副葬されるようになるのである。
このようにして多くの渡来人が海を渡って、乗馬の風習以外にもさまざまな技術や文化を倭国に伝えるのである。
倭国はまた、こうした朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、百済や新羅などと同じように中国の南朝に使いを送り、朝貢している。
『宋書』の倭国伝(夷蛮伝倭国条)には、5世紀初めから約1世紀の間に、讃、珍、済、興、武の5人の倭王(倭の五王)が相ついで宋に遣使したことが記されている。
『宋書』の倭国条にみられる倭の五王のうち、済とその子である興と武については、「記紀」(古事記と日本書紀との総称)にみられる允恭天皇とその子の安康天皇・雄略天皇にあてることにはほとんど異論はないが、讃については応神天皇、仁徳天皇、履中天皇にあてる説があり、珍につても仁徳天皇・反正天皇にあてる説が対立している。
なお埼玉県の稲荷山古墳から出土した辛亥銘鉄剣の銘文にみえる「獲加多支鹵大王」が「記紀」にいう「ワカタケル」天皇すなわち雄略天皇、つまり倭王武にあたることはほぼ確実と考えられる。
中国との交渉年表
弥生・古墳時代 中国との交渉
中国 | 日本 | ||||||
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西周 | 前1046 | 前11世紀〜 | 水稲耕作・大陸系石器・支石墓の伝来 板付遺跡(福岡県) | 早期 | |||
春秋時代 | 前770 | 前8世紀〜 | 北九州で支石墓・甕棺墓が現れる | 弥生前期 | |||
吉野ヶ里遺跡のはじまり | |||||||
戦国時代 | 前403 | 前4世紀〜 | 縄文式土器の影響を受けた弥生式土器が現れる | ||||
秦朝 | 前221 | ■環濠集落の出現 | 環 濠 集 落 ・ 高 地 性 集 落 の 発 達 |
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前206 | |||||||
前漢 | 前202 | ||||||
■丘陵の周囲に大きな環濠や墳丘墓を造成 | 弥生中期 | ||||||
百余国に分立・漢に献見す(『漢書』地理志) | |||||||
8 | |||||||
新朝 | 23 | ||||||
後漢 | 25 | ||||||
57 | 倭の奴国の王・後漢に遣使。光武帝より「漢委奴国王」の印綬を賜る(『後漢書』東夷伝) | 弥生後期 | |||||
107 | 倭国王帥升等、生口160人を安帝に献上(『後漢書』東夷伝) | ||||||
147 | 倭国大乱(『後漢書』東夷伝) | ||||||
189 | |||||||
曹魏 | 220 | ■高床倉庫・物見やぐらなどの建設 | |||||
孫呉 | 221 | ||||||
蜀漢 | 222 | ||||||
239 | 邪馬台国女王卑弥呼,魏に遣使。「親魏倭王」の称号と金印紫綬と銅鏡百枚などを賜る。 (『魏志』倭人伝) |
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247 | 卑弥呼死す | ||||||
263 | |||||||
265 | |||||||
晋 (西晋) | 266 | 倭の女王壱与,晋に遣使 | |||||
280 | □前方後円墳の出現 | 前期 | 古墳時代 | ||||
316 | |||||||
五胡十六国 | 東晋 | 317 | |||||
372 | 百済王, 七支刀を倭王に贈る | ||||||
北魏 | 386 | ||||||
391 | 倭,百済・新羅を破る(高句麗 好太王碑の碑文) | 中期 | |||||
413 | 倭国,東晋に方物を献上(『晋書』) | ||||||
420 | |||||||
宋(南朝) | 421 | 讃,宋に遣使(421〜478『宋書』倭国伝) | |||||
438 | 珍,宋に遣使。「安東将軍 倭国王」となる | ||||||
439 | |||||||
443 | 済,宋に遣使。「安東将軍 倭国王」となる | ||||||
451 | 済,「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」となる | ||||||
462 | 興,「安東将軍 倭国王」となる | ||||||
478 | 武, 宋に遣使。「使持節都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」となる | ||||||
479 | 479 | 武,「鎮東大将軍」となる(『南斉書』倭国伝) | 後期 | ||||
斉(南朝) | 502 | 502 | 武,「征夷大将軍」となる(『梁書』) | ||||
梁(南朝) | 512 | 百済に伽椰西部の支配を認める | |||||
東魏 | 534 | ||||||
西魏 | 535 | ||||||
538 | 百済聖王,欽明天皇に仏像と経典を献上(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』『日本書紀』) | ||||||
北斉 | 550 | ||||||
北周 | 556 | ||||||
陳(南朝) | 557 |