国司の地方支配
政府は醍醐天皇の902(延喜2)年、延喜の荘園整理令を出して法にそむく荘園の停止を命じ、班田の励行をはかるなどして令制の再建をめざしたが、これを実施する過程で、もはや律令制の原則では財政を維持することが不可能になっていることを知った。
国司の地方支配
政府は醍醐天皇の902(延喜2)年、延喜の荘園整理令を出して、法にそむく荘園の停止を命じ、班田の励行をはかるなどして令制の再建をめざしたが、これを実施する過程で、もはや律令制の原則では財政を維持することが不可能になっていることを知った。
延喜の荘園整理令
この荘園整理令はのちの整理令の出発点になったもので、「院宮王臣家」と称される権門勢家が諸国の百姓と結んで土地を私有化することを禁じている。その内容自体は特別に新しいものではなかったが、それまで出された法令を集成して、新たな意気込みで立て直しをはかったものである。
しかし、諸国の国務の妨げにならないものは認めるという例外規定は、かえって荘園の公認を意味することにもなり、むしろ各地では荘園の公認を求める動きが活発化した。
戸籍の実態
902(延喜2)年の阿波国田上郷の戸籍では、5戸453人の内訳は男59人・女376人となっていて、調・庸が課せられる男性の数を少なくしようと作為したあとが明らかである。これからもわかるように、当時の戸籍は実態から離れたものになって、それに基づく班田制の実施もしだいに困難になり、902(延喜2)年を最後に、班田の史料はみられなくなった。
914(延喜14)年、三善清行は醍醐天皇に「意見封事十二箇条」を提出して、地方政治の混乱ぶりを指摘しているが、そこで主張されている律令制支配への復帰はもはや不可能だった。
「延喜・天暦の治」とうたわれ、のちに天皇親政の理想的時代と讃えられた10世紀初めは、実は律令体制の変質がはっきりし始めた時代であった。
政府は、まもなく方針を転換して、国司に一定額の税の納入を請け負わせ、一国内の統治をゆだねる国司請負の方針を積極的にとり始めた。これまでは中央政府の監督のもとで国司が行政にあたり、税などの徴収や文書の作成は郡司が行ってきたのであるが、それを大きく転換したことで、地方政治の運営において国司の果たす役割は大きくなった。国司の役所である国衙は、以前よりも重要な役割をもつようになり、律令制のもとで地方支配を直接に担ってきた郡家の役割は衰えていった。
任国に赴任した国司のうち最上席の長は受領と呼ばれ、巨利をあげるため強欲なものが多かったので、任地で郡司や有力農民から暴政を訴えられる場合がしばしばあった。大宰府の受領の大宰大弐藤原惟憲は京に上った際に、「随身の珍宝はその数を知らず、九州二島の物、底を払って奪い取る」と称されたほどであり(『小右記』)、『今昔物語集』には、当時の受領の貪欲さを物語る話が多くみえている。信濃守藤原陳忠は、京へ帰る際に谷底に落ちたが、はい登る途中に生えていた平茸をとることを忘れなかったという。
受領
受領は本来、前任者の事務を引き継ぐことであり、転じて前任国司の事務を引き継ぎ、国内の事務の責任を担う上席の国司を称するようになった。多くは国の守であったが、新王の任国とされた上総・上野・常陸では介であり、大宰府では帥か大弐であった。身分は多くは五位と低かったが、その経済力は高く、摂関期には摂関に従属して経済的な奉仕を行い、院政期には院の重要な政治的基盤ともなった。
一条天皇の998(永延2)年の「尾張国郡司百姓等解」(尾張国解文)によって訴えられた尾張守藤原元命もその一例である。31カ条にわたるその訴状では、出挙のほかに利息を加徴したり、法外に安い値段で産物を買い上げたり、また田の面積を何倍にも算定して税をとったり、京から「不善の輩」を連れてきて、法外な行為に及んでいる、と訴えられている。政府はこの訴えをとりあげ、国司を解任したものの、やがて元命はほかの官職についており、特別な対策が講じられたわけではなかった。
徴税請負人の性格を強めた受領は、やがて課税率をある程度自由に決めることができるようになったため、私腹をこやし巨利をあげる受領が現れ、その地位が利権視された。成功といって、私財を出して朝廷の儀式や寺社の造営などを助け、その代償として国司などの官職を得ることや、同じ国の国司に再任される重任も行われるようになった。地方で支配にあたっていた受領は、やがて遙任といって地方に赴任せずに、代わりに目代を国衙に派遣して国司としての収入を得ることが多くなった。
受領は有力農民(田堵)に一定の期間を限って田地の耕作を請け負わせ、かつての租・調・庸・公出挙や雑徭などに相当する額の官物(年貢)や臨時雑役(公事・夫役)などの負担を課すようになった。税徴収の対象となる田地は名という徴税単位にわけられ、それぞれの名には負名と呼ばれる請負人の名がつけられた。田堵のなかには受領と結んで勢力を拡大し、ますます大規模な経営を行い、大名田堵と呼ばれるものも多く現れた。
こうして、戸籍に記載された成人男性を中心に課税する律令制的支配の原則は崩れ、有力農民の経営する名と呼ばれる土地を基礎に課税する支配体制ができていった。この支配体制に基づく国家を、とくに律令国家と区別して王朝国家と呼ぶことがある。
11世紀後半になると、受領は京に住み、摂関家などに仕えてその経済的な奉仕を行いつつ、重任や他国の国司に移る遷任を繰り返して、富を蓄えていったのである。一方、現地の国の国衙には、留守所と呼ばれる機関が受領の派遣した目代を中心にしてつくられ、その指揮のもとで国衙の行政事務は地方の豪族から選ばれた役人が実務をとるようになった。これを在庁または在庁官人といい、その地位は世襲されていった。