大宝律令と官僚制
文武天皇の即位後、持統太上天皇と藤原不比等の主導のもと、刑部親王を総裁として新たな律令の編纂が進められ、701(大宝元)年、わが国において初めて、律・令ともに備わった法典として完成した。これが大宝律令である。同年、約30年ぶりに遣唐使の派遣を決定したが、それは唐に対して、この独自の律令、この時に定められた「日本」という国号、天武朝に改められた「天皇」という君主号、「大宝」とされた元号という4者を唐の皇帝に報告し、その許可を得るという任務を帯びたものと思われる。
大宝律令と官僚制
文武天皇の即位後、持統太上天皇と藤原不比等の主導のもと、刑部親王を総裁として新たな律令の編纂が進められ、701(大宝元)年、わが国において初めて、律・令ともに備わった法典として完成した。これが大宝律令である(718(養老2)年には藤原不比等らによって養老律令がつくられ、757年に施行されたが、両者は内容的には大きな変化はなかった)。
律は大宝律、養老律ともにほとんど伝わっていないが、唐律をほぼ全面的に引き写したものとされる。一方、令では養老令は『令の義解』『令集解』によってほぼ全条文を知ることができ、大宝令は『令集解』の引く「古記」によって一部推定することができる。
この年、約30年ぶりに遣唐使の派遣を決定したが、それは唐に対して、この独自の律令、このときに定められた「日本」という国号、天武朝に改められた「天皇」という君主号、「大宝」とされた元号という4者を唐の皇帝に報告し、その認可を得るという任務を帯びた可能性がある。
唐の冊封を受けていた新羅とは異なり、独自の君主号や律令・暦をもつことを認定されることで、「東夷の小帝国」として、新羅に対する優位性を主張しようとしたのであろう。
日本の国号
わが国の国号は、もとはヤマト政権の中心地である「やまと」が用いられた。一方、中国ではわが国を「倭」と称していたため、外交の場ではこれが用いられた(後世にも、「倭」を「やまと」と訓んだり、「日本」を「やまと」と訓んだり、「日本」を「やまと」と訓んだりしている)。
ほかには、「大八洲」「葦原中国」「秋津島」などの呼称があった。しかし、基本的で国際的な国号である「倭」には、「小人」や「従順」などの意味があったので、律令制の成立とともに、新たな国号を「日本」と定めた。
中国の歴史書である『旧唐書』東夷伝日本条では、「日本国は、倭国の別種なり。其の国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰はく、倭国、自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と説明されている。新たな国号は、702(大宝2)年に派遣された遣唐使によって、中国に知らされたことであろうが、独自の君主号や律令、元号などと異なり、「日本」という国号は、中国の皇帝に容易に受け入れられ、承認されたものと思われる。
古代天皇制の性格
日本古代天皇制の性格に関しては、天皇を古代的専制君主であると理解する見解と、天皇を専制君主とはみなさず、律令制の実態を貴族制的支配、或いは貴族勢力による貴族共和制と理解する見解とが存在した。
しかし近年では、天皇と諸氏族層との対抗関係の存在を否定し、両者の相互依存関係を重視する見解が主流になりつつある。
そして日本古代国家における天皇の性格を、専制・非専制の二者択一で捉えるのではなく、その両面を併せもったものとして理解するという視点が必要となってきている。この二面性は、日本古代国家成立の様相に基づくものであり、激動の東アジア国際情勢に対しての現実的な関わりと、中国からもたらされた高度な統治理念の両方によって形成されたものであった。
また、古代の天皇制は、太陽神たる皇祖の子孫であるという伝承に支配の正当性を求めて、易姓革命による王朝交替を回避しようとした。
律は刑罰法で、養老律では497条あったと推定されている。令は教令法で、養老令では953条あったと推定されている。国家の統治組織、官人の服務規定、人民の租税・労役などを定めたものである。
この体系的な法典は、日本の社会の中から自生的に生まれたものではなく、中国が長い歴史の経験から生み出した先進的な統治技術を、ほぼそのまま継受したものであった。したがって、氏族制的な原理がまだ残存していた日本の社会においては、律令は「統治技術の先取り」という面があり、律令国家は中国的な律令制とヤマト政権以来の氏族制とが重層する二重構造を内包していたといえよう。
唐と日本の律令
日本の律令法は、7世紀末から8世紀初頭にかけて、唐の律令を導入することによって編纂された。
日本の律令は、唐の律令を母法とする継受法という側面と、固有法という側面とを、併せもっている。ただし、固有法とはいっても、隋・唐以前の中国南北朝の法制を朝鮮諸国を通じて導入したり、朝鮮諸国の国制を導入したりして、形成されていったのであり、どこまで日本固有のものかを判断することは難しい。
また、中国では儒教の基本である礼楽が、律令を支える社会思想として機能していたが、日本ではそれらを受容することはなく、律令は単なる支配の道具という側面が強かった。中国では律が先に編纂されたのに対し、日本では、令のみで律が編纂されなかった飛鳥浄御原令、令の方が先行して施行された大宝律令にみられるように、行政法としての令の方が優先された(令のみが現在まで伝わっているのも偶然ではない)。また、社会の発達の段階が、唐と日本では格段の差があった。氏族制的な原理が在地社会で生き続けていた日本においては、律令は「統治技術の先取り、もしくは目標」と認識されていたのである。
なお、唐の律令と比較すると、律は唐律をほぼ引き写したものであるのに対し(ただし、概して日本律の方が唐律よりも刑罰が軽い)、令は唐令を参照しながらも、日本の国情に合うように修正した箇所もある。例えば、家産分割法としての戸令応分条が日本では遺産相続法に変えられていたり、外祖父母の地位が中国に比べて高く規定されていることなどは、日本の社会構造に対応したものと考えられる。
律令で定められた統治機構は、まず中央に、神祇祭祀をつかさどる神祇官と、一般の行政事務を総攬する太政官の二官があった。太政官の下には八省があり、さらにその下に職・寮・司などの諸官司があって、それぞれの職掌を分担した。
国政の運営は、太政官の最高首脳である太政大臣(常置しなくともよい「則闕の官」)・左大臣・右大臣・大納言からなる公卿(のちに中納言・参議が加わる)による合議によって進められ、その結果を天皇が裁可するという方法で行われた。
政務決済方式
国政に関わる法令が定立される過程は、最初に何者が案件を提起したかによって、三つに類別される。
第一に、案件の提起者が天皇の場合である。その案件が臨時の大事であると、詔書が作成される。天皇が中務省に命じて起草した草案に議政官(公卿)が副署し、弁官が太政官符を作成して施行する。案件が尋常の小事であると、勅旨が作成される。天皇が中務省に命じて起草した草案が弁官に送られ、弁官が太政官符を作成して施行する。
第二に、案件の提起者が議政官の場合、その案件が重要なものであると、議政官による審議の結果が天皇に奏上され(太政官奏)、天皇の裁可を得る。裁可を経た太政官奏は、そのまま施行される場合と、弁官が作成する太政官符によって施行される場合がある。案件が重要なものではないと、議政官の審議の結果が弁官に送られて、太政官符によって施行される。
第三に、案件の提起者が一般官司・一般官人・寺社・僧の場合、統属関係にある官司を経由して太政官に解という文書が上申されると、議政官がその案件を審議する。案件が重要なものであると、審議の結果が天皇に奏上され、天皇の裁可を得、弁官の作成する太政官符によって施行される。案件が重要なものではないと、議政官が独自に処分し、弁官に送られて、太政官符によって施行される。
これらを総合すると、太政官、特に議政官の審議と、天皇の最終的な裁可が、重要な意味をもつことが理解されよう。日本古代の政治は、この両者の相互依存と妥協によって運営されていたのである。ただし、議政官の審議が、天皇と結びついた特定の氏族や権力者によって領導されたり、天皇の個性が極端に発露されたりすると、政治は極めて専制的な性格を帯びることになる。
公卿の下には、宮中の事務を扱う少納言、及び左弁官と右弁官があった。
左弁官は、中務省・式部省・治部省・民部省の事務を総括し、右弁官は、兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の事務を総括した。
そのほか、官吏を観察する弾正台や、軍事組織としての衛府がおかれた。
衛府は、衛門府、左・右兵衛府、左・右衛士府にわかれ、合わせて五衛府と称された。
一方、地方は大和国、山背国、河内国、摂津国を畿内とし(のちに和泉国が河内国から分置)、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道を七道とした。行政区画としては、国・郡・里(のちに郷と改称)の3階にわけ、国に国司、郡に郡司、里に里長(郷には郷長)をおいて統治させた。
国司は中央の貴族の中から任命されて地方に下り、6年(のちに4年)の任期で交替したが、郡司はかつての国造などの地方豪族から選ばれて終身任じられ、また世襲も認められていた。各地方において、直接人民と接してこれを支配するのは、郡司や里長などの在地首長であり、律令国家は、国家と公民との間の関係と、在地首長と人民との間の関係という、二重の支配関係の上に成り立っていた。
また、重要な地域には特別の官庁を設けた。京には左・右京職をおき、外交上の要地である摂津には難波を管轄する摂津職をおいた。さらには、外交及び国防上の最重要地である西海道に大宰府をおき、九州全般の民政及び軍事を総括させた。
大宰府
7世紀後半、筑紫、吉備、周防、伊予、坂東など、全国の要地におかれて周辺の数カ国を管轄していた総領(大宰)は、律令制の成立にあたって廃止されたが、朝鮮半島・大陸との外交・軍事の最重要地である筑紫のみは存続し、その名も単に大宰府と称されるようになった。
大宰府には、帥、大弐、少弐以下、600人近い官人が勤務し、多くの被管官司を従えていた。
その職掌は、対外的には軍事と外交を管轄し、内政上では西海道の9国3島を総轄することであった。また、管内の租税はいったん大宰府に集められて府の費用にあてられ、一部を京進することとなっていた。
現在、福岡県太宰府市に政庁跡が残り、発掘調査が進められている。その結果、東西24坊(2.6km)、南北22条(2.4km)の大宰府条坊と、その北辺中央部の方4町(0.4km)の府庁の存在が確認された。
それは単なる地方官衙の枠を超え、藤原京や平城京のミニチュア版といったものであり、まさに「天下の一都会」と称された「遠の朝廷」の名にふさわしい規模と格をもっていた。
四等官
四等官表
官職 | 神祇官 | 太政官 | 省 | 職 | 寮 | 衛府 | 大宰府 | 国 | 郡 |
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長官 かみ | 伯 | 太政大臣 左大臣 右大臣 | 卿 | 大夫 | 頭 | 督 | 帥 | 守 | 大領 |
次官 すけ | 大副 少副 | 大納言 | 大輔 少輔 | 亮 | 助 | 佐 | 大弐 少弐 | 介 | 少領 |
判官 じょう | 大祐 少祐 | 少納言 左弁官 右弁官 | 大丞 少丞 | 大進 少進 | 大允 少允 | 大尉 少尉 | 大監 少監 | 大掾 少掾 | 主政 |
主典 さかん | 大史 少史 | 左外記 右外記 左史 右史 | 大録 少録 | 大属 少属 | 大属 少属 | 大志 少志 | 大典 少典 | 大目 少目 | 主帳 |
中央・地方の諸官庁には、それぞれ長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官がおかれ、その下に多くの下級官人が配置されていた。
四等官の記載法は、官司の格によって異なっており、例えば長官には、左右大臣・卿・大夫・頭・督・帥・守など、さまざまな表記があった。
官位相当の制
官人は、その出自や出身に応じて位階を授けられ、その位階に相当する官職に任命された(官位相当の制)。位階は、親王は一品から四品まで、諸王は正一位から従五位下までの14階、諸臣は正一位から少初位下までの30階にわかれており、勤務評定によって昇進する規定になっていた。
律令国家の支配階級を構成したのは、皇族(親王・内親王)・皇親(諸王・女王)と官人であった。特に五位以上の官人とその家族が貴族と呼ばれ、多くの特権をもっていた。
まず、位階に対しては位田・位封・季禄・資人などが与えられ、官職に対しては職田・職封・資人などが与えられた。また、調・庸・雑徭などの負担が免除されたほか、刑罰についても減刑の特権をもっていた。
蔭位の制
また、蔭位の制といって、三位以上の貴族の子と孫、五位以上の貴族の子には、大学に入学しなくても、出身時に一定の位階が授けられるという特典があった。この制度によって貴族階層の再生産がはかられ、特に藤原鎌足以来、代々正一位の官人を出した藤原氏は、この制度を利用して、多くの上級官人を輩出することになった。
五刑
司法制度に目を移すと、刑罰には、笞・杖・徒・流・死の五刑があった。
笞と杖は、殴打数に応じて、徒は懲役年数に応じて、それぞれ5等にわかれ、流には流刑地に応じて近流・中流・遠流の3等があった。死には、絞と斬があり、斬の方が重かった。
八虐
日本律の刑罰は、中国に比べると緩やかな規定となっているが、それでも国家や社会の秩序を維持するため、国家や天皇、尊属に対する罪は、特に重く規定されていた。謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義の八虐は、有位者でも罪を減免されず、恩赦の際にも赦されない規定であった。