守護大名と国人一揆
室町時代、地方に土着した武士たちを国人と総称し、守護大名の力の弱い地域では国人の活動が盛んで、彼らは国人相互間の紛争を自分たちで解決するために、また実力をつけてきた農民を服従させるために、互いに契約を交わし、地域的な一揆を形成した。これを国人一揆という。この場合、一揆とは一致団結した集団を指す。国人一揆・土一揆・馬借一揆などがあり、国人一揆は、参加した国人が守るべき規約を作成し、国人はみな平等であること、多数決を重んじることをうたい、自主的な地域権力をつくりあげ、守護大名の支配に抵抗した。
守護大名と国人一揆
室町幕府は、鎌倉幕府・建武の新政を崩壊させた全国の武士たちをまとめあげるために、各国に守護を派遣した。守護の多くは足利氏の一門で、地元の有力者が守護に登用された例は少ない。この点で、室町幕府の守護の配置は、北条得宗政権下のそれにならったものといえる。
幕府は地方武士を組織するために、守護の権限を拡大した。守護の職権といえば大犯三か条であるが、1346(貞和2)年、これに刈田狼藉を取り締まる権限と使節遵行とが加わった。武士同士が田地をめぐる紛争をおこし、自分の所有権を主張して田の稲を一方的に刈り取る実力行使を刈田狼藉と呼ぶ。武士の所領争いにはこの行為が付随したので、守護は刈田狼藉取締りを名目に、管轄国内の武士の争いに介人できるようになった。また使節遵行は、幕府の裁判の判決を受け取つた守護が使者を現地に派遣し、判決内容を強制的に執行することをいう。ここでは、守護は幕府の勢威を体現するものとして、それまで関与できなかった司法の権限を行使している。
1352(観応3・文和元)年、幕府は軍事費用の調達を目的として半済令を発布した。戦乱が激しかった近江・美濃・尾張の3カ国に限り、 1年だけの約束で、守護に一国内の荘園・公領の年貢の半分を徴発する権利を認めたのである。当時は観応の擾乱の最中で、戦いは全国に拡大してい
た。守護たちはこぞって自己の管轄国内への半済令の適用を渇望した。そのために半済令はしだいに全国的に、 また永続的に行われるようになった。1368(応安元)年には応安の半済令❶ が出され、年貢ばかりか、土地自体を分割する
ようにもなった。守護は半済令を盾に荘園。公領を侵略し、年貢や土地を武士にわけ与えた。
守護は新たに得た権限を利用し、国内の武士を自己の統制下に繰り入れていった。この任務に失敗した者は任を解かれ、新たな守護が送り込まれた。兵乱が一応の鎮静をみた義満のころには守護の配置も安定し、守護職は世襲された。彼らは守護代に領国を統治させ、自身は在京して幕府に出仕するようになった。有力守護は幕政の中枢に参画し、幕府の運営にあたった。経済的には、荘園領主が年貢の徴収を守護に請け負わせる守護請が盛んになった。守護請の成立により、荘園領主は荘園の経営にますます干渉できなくなった。守護は荘園への支配を強めるとともに公領にも進出し、国衛の機能を吸収し、一国全体に及ぶ地域的支配権を確立していった。軍事・警察権のみを保持した鎌倉幕府の守護と区別して、 この時代の守護を守護大名と呼び、守護大名のつくりあげた支配体制を守護領国制と呼ぶこともある。
武士たちを統制下へ繰り入れるに際し、守護たちはそこに明瞭な主従の関係を設定しようとした。実際に多くの武士が守護の郎党と化していった。しかし、武士のなかには将軍との直接の主従関係を重んじる者もおり、 また自立を強く志す者もいた。当時、地方に土着した武士たちを国人と総称したが、守護大名が彼らを等しく家臣化するには多くの困難が伴った。守護大名の力の弱い地域では国人の活動が盛んで、彼らは国人相互間の紛争を自分たちで解決するために、また実力をつけてきた農民を服従させるために、互いに契約を交わし、地域的な一揆を形成した。これを国人一揆という。なおこの場合、一揆とは一致団結した集団を指す。中世の人々は、個々の力ではなし得ない目的を実現するために、神仏に誓いを立てて強国に団結した。この集団が一揆で、国人一揆・土一揆・馬借一揆などがあった。このうち国人一揆は、参加した国人が守るべき規約を作成し、国人はみな平等であること、多数決を重んじることをうたった。国人たちは力を合わせて自主的な地域権力をつくりあげ、守護大名の支配に抵抗したのである。