幕府の動揺と応仁の乱
- 1416〜17 上杉禅秀の乱:鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉氏憲(禅秀)の対立に際し、将軍義持は持氏に援兵し鎮圧
- 1438〜39 永享の乱:義教の将軍就任に反対した鎌倉公方持氏がおこした反乱。幕府と結んだ関東管領上杉憲実により翌年持氏は自害
- 1440 結城合戦:下総の結城氏朝が持氏の遺児春王丸らを擁し結城城に蜂起、敗退。
- 1441 嘉吉の変:播磨国守護赤松満祐が将軍義教を謀殺。追討軍により満祐は播磨で討たれる。
- 1467〜77 応仁の乱
幕府の動揺と応仁の乱
足利義満のあとを継いだ将軍足利義持時代の幕府政治は、将軍と有力守護の勢力均衡が保たれ、比較的安定していたが、1416(応永23)年には鎌倉公方足利持氏(1398~1439)に不平をもっていた前関東管領上杉氏憲(禅秀 ?〜1417)が反乱をおこし、幕府に鎮圧される事件もおきている(上杉禅秀の乱)。5代将軍足利義量(1407〜25)が早世したのち、義持は後継者を定めぬまま死去したため、くじ引きによって義持の弟の足利義教(1394~1441)が6代将軍に選ばれた。義教は幕府における将軍権力の強化をねらって、将軍に服従しない者をすべて力でおさえようとしたため、幕府からの自立意識が強かった鎌倉府との関係が悪化し、11438(永享10)年、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実(1410〜66)が対立したのを機に、将軍義教は上杉憲実支援の名目で関東へ討伐軍を送り、翌年、足利持氏を討ち減ぼした(永享の乱)。さらに、義教は専制政治を強行し、1440(永享12)年には有力守護である一色義貫(1400〜40)・土岐持頼(?〜1440)を相ついで誅殺したため政治不安が高まり、1441(嘉吉元)年、処罰を恐れた有力守護赤松満祐(1373〜1441)は義教を殺害した(嘉吉の変)。やがて赤松氏は幕府軍に討伐されたが、 これ以降、将軍の権威は大きく揺らいでいった。
義教の恐怖政治
6代将軍義教は病的ともいえるほど癇が強く、また執念深い性格のもち主で、その怒りにふれて処罰された者は数知れない。1434(永享6)年、義教の妻日野重子(1411〜63)にのちの7代将軍義勝(1434~43)が誕生したとき、重子の兄日野義資はおりしも義教の勘気をこうむって謹慎中であったが、義勝の誕生によって義資の謹慎も解けるだろうと信じた多くの人々が義資邸へ祝賀に訪れたところ、義教はあらかじめ部下を張り込ませておいて訪問者の顔ぶれを調べあげ、公家・武家・僧侶など数十人に及ぶ人々を所領没収や家督剥奪などの厳罰に処した。
その数力月後、日野義資はは何者かに暗殺されたが、それが義教の仕業だと噂したある公家は、所領没収のうえ流罪となった。公家のひとり中山定親(1401〜59)はその日の日記に、義教の将軍就任から1434(永享6)年までの間に義教から処罰された人々のリストを書きあげている。そこには、公家・神職・僧侶・女房など70名以上にのぼる人々の名がみえる。その後、嘉吉の変までの数年間を含めれば、受難者の数はこの倍以上にのぼるとみられている。
一方、永享の乱後の関東では、1440(永享12)年に下総の結城氏朝が足利持氏の遺子を迎えて下総の結城城に立てこもったが、翌年、幕府の支援を得た上杉軍の攻撃を受けて落城した(結城合戦)。その後、嘉吉の変後の混乱に乗じて死をまぬがれた足利持氏の子足利成氏(1434~97)が鎌倉公方となった。成氏も上杉氏と対立し、1454(享徳3)年に憲実の子で関東管領の上杉憲忠(1433~ 54)を謀殺したのが引き金となって大乱がおこり(享徳の乱)、以後、関東はほかの地域に先んじて戦国の世に突入することとなった。
京都では、将軍権力の弱体化に伴い幕府政治の実権が有力守護に移っていくなかで、約1世紀に及ぶ戦国時代の口火を切った応仁の乱(応仁・文明の乱)がおこった。まず管領家の一つ畠山氏で、父畠山持国から家督を譲られた畠山義就(?〜1490)に対し、反義就派の家臣が一族の畠山政長(1442〜93)を擁立して対立し、ついで斯波氏でも惣領の斯波義健(1435〜52)が後継のないまま死去したため、一族から迎えられた斯波義敏(1435?〜1508)と九州探題渋川氏の一族から迎えられた斯波義廉(1447〜?)が家督を争うなど、幕府の管領家にあいついで内紛がおこった。将軍家でも8代将軍足利義政(1436〜90)が弟足利義視(1439〜91)を後継者と定めた翌年、義政の妻日野富子(1440〜96)に足利義尚(1465〜89)が誕生したことから、両者の間に家督相続争いがおこった。そして当時、幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元(1430〜73)と山名持豊(宗全 1404〜73)が、それぞれ義視と義尚を支援したために対立が激化し、何度かの小競り合いを繰り返したのち、1467(応仁元)年5月に全面的な戦闘状態に入った。
当時、武士社会では単独相続が定着し、嫡子の立場が諸氏に比べ絶対的となったため、その地位をめぐる争いが多くなっていたのに加え、大名などの家督決定が、父親の意思だけでなく、将軍の意向や家臣の支持の有無などに大きく影響されるようになり、しかもそれぞれの要求がかならずしも一致しなかったことから相続争いはますます複雑化した。ここにほかの有力守護が縁戚関係や領国支配をめぐる利害関係などに基づいてつぎつぎと争いに介入してきたために、紛争は連動拡大し、大乱を招く原因となったのである。
家督相続者の条件
親権が強かった鎌倉時代においては、家督相続者の決定には父親の意向が絶対的な効力をもったが、室町時代になると「器用」という別の論理が入り込んでくる。これを象徴する事件としてよく知られているのは、一つは1428(正長元)年に危篤におちいった将軍義持に対し、管領ら有力守護たちが後継者の指名を迫ったところ、義持は「たとえ後継者を指名してもみんな(有力守護たち)がその人物を受け入れなければ意味がない。みんなで協議してしかるべき人選を行うがよかろう」と述べて後継者を定めずに世を去った事実。
もう一つは1433(永享5)年に安芸の国人小早川兄弟におこった家督争いについて、その解決を迫られた将軍義教が「小早川家の一族・家臣たちが兄弟のどちらにしたがうか、彼らの意向によって決定としたい」と述べている事実である。将軍であれ、国人であれ、家督相続者は国や所領、そして家臣たちを治めるだけの「器用」(能力)を備えていなければならず、それをはかるものは結局のところ、それぞれの家臣の支持以外にはあり得ないという論理が この時代に定着してきたのである。しかし、家督相続者は父親の意向にしたがって決定されるべきだとする論理もいまだ根強く残っており、そのジレンマが応仁の乱の引き金となった家督争いの一因だったのである。
守護大名はそれぞれ両軍にわかれ、細川方(東軍)には畠山政長・斯波義敏・赤松政則(1455~96)ら24カ国16万人、山名方(西軍)には畠山義就・斯波義廉ら20カ国11万人といわれる大軍が加わった。戦いは当初、将軍邸を占拠して義政・義尚 義視の身柄を確保した東軍に有利に展開したが、8月に大内政弘(1446~95)が周防・長門・豊前・筑前4カ国の大軍を率いて西軍に合流すると、戦況は一変し、東軍は将軍邸を中心とする一角に追い込まれるかたちとなった。そのようななかで1468(応仁2)年11月、当初東軍にかつがれていた足利義視が将軍邸を抜け出し、西軍に走ったことから、西軍では義視を将軍に立てて幕府としての陣容をととのえ、ここに東西二つの幕府が成立することになった。以後、戦況は膠着状態に入るが、主戦場となった京都の町は戦火や足軽の乱暴によって荒廃するとともに、争乱は地方へと広がつていつた。応仁の乱はその後、1473(文明5)年に両軍の大将であった山名持豊・細川勝元があいついで死去したことから和睦の気運が高まり、1477(文明9)年に主戦派であつた畠山義就・大内政弘が下国するに及んで、戦いに疲れた両軍の間に和睦が結ばれた。こうして京都の戦いには一応の終止符が打たれ、守護大名の多くも領国に下ったが、争乱はその後も地域的争いとして続けられ、全国に広がっていった。この争乱により、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し、同時に荘園制の解体も進んだ。
応仁の乱で在京して戦った守護大名の領国では、在国して戦つた守護代や有力国人が力を伸ばし、領国の実権は次第に彼らに移っていった。また地方の国人たちは、この混乱のなかで自分たちの権益を守ろうとして、しばしば国人一揆を結成した。1485(文明17)年、南山城地方で両派にわかれて争っていた畠山氏の軍を国外に退去させた山城の国一揆は、その代表的なものである。この一揆は、三十六人衆と呼ばれた南山城の国人たちが住民の支持を得て結成したもので、独自の法である国掟を定め、集会を開いて重要事項を決定したほか、日常的な政務を処理するために月行事と呼ばれる役職を設置するなど、自治的な運営体制をとっていた。こうして山城の国一揆は、1493(明応2)年に幕府支配を受け入れるまで8年間にわたり、一揆の自治的支配を実現した。このように、下の者の力が上の者の勢力をしのいでいく現象がこの時代の特徴であり、これを下剋上といった。
1488(長享2)年におこった加賀の一向一揆も、その一つの現れであった。この一揆は、本願寺の蓮如(兼寿 1415〜99)の布教によって近畿・東海・北陸に広まった浄土真宗本願寺派の勢力を背景とし、加賀の門徒が国人と手を結び、守護富樫政親(1455〜88)を倒したもので、以後、一揆が実質的に支配する本願寺領国が、織田信長に制圧されるまで、1世紀にわたって続いた。
国一揆
国人一揆のなかには、権力集中が進んだ結果、一揆が独自の政治機構を備え、その地域の村や寺社を支配したり、ときには独自に徳政令を発布するなど、独立した地方政権としての性格を帯びたものがみられる。このような一揆が郡規模で結ばれたものを郡中惣、 さらに一国規模で結ばれたものを国一揆もしくは惣国一揆などと呼んだ。郡中惣としては、戦国時代の近江甲賀郡に成立した甲賀郡中惣、国一揆としては、同じく戦国時代の伊賀国に成立した伊賀惣国一揆が代表的なものである。いずれも独自の法をもち、徳政令を発布し、 ときには百姓を戦に動員したり、ほかの戦国大名と同盟を結んだりすることもあった。