律令国家の形成
671年天智天皇が死去すると、翌672年に天智天皇の長子大友皇子との大王位継承争い(壬申の乱)に勝利した天智天皇の同母弟の大海人皇子は683年に即位(天武天皇)した。軍国体制のもと、強大な天皇権力を利用して国家機構を組織し、皇親や諸豪族をその中に再編成することをめざした。
律令国家の形成
天智天皇が671(天智天皇10)年に死去すると、翌672年に、壬申の乱がおこった。これは、天智天皇の同母弟で大王位継承者とされていた大海人皇子と、天智天皇の長子(母は伊賀の地方豪族出身)で、671年に政権に参画した大友皇子との間におこった大王位継承争いを発端としている。
吉野に退いていた大海人皇子は、東国に脱出し、伊賀・伊勢を経て美濃を本拠とし、東国で徴発された数万の兵と、大伴氏を中心とする大和の諸豪族の兵を配下に収めた。大海人軍は飛鳥京を平定するとともに、大津宮を目指して近江路を進軍した。
一方、大友皇子は、西国の兵を徴発しようとしたが、白村江の戦いの動員で疲弊し、近江朝廷への不満を強めていた西国の地方豪族からの動員は思うようには進まず、ついに近江大津宮は陥落し、大友皇子は自殺して乱は決着した。
大海人皇子は、673年に飛鳥浄御原宮で即位した(天武天皇)。
それまで「大王」とされていた君主号にかわるものとして、「天皇」号が制定されたのも、天武朝であったと考えられる。中国の「皇帝」と対置し、中国皇帝の冊封を受けた新羅の「国王」よりも優位に立つ、「東夷の小帝国」の君主として、自らを位置付けようとしたのである。
中大兄皇子(後の天智天皇)の娘として生まれた鸕野讃良皇女の目線で描いた、史実で明らかな部分(登場人物の生没年、各種法令・書物の成立時期など)は改変しないというルールを貫いた作品
大王から天皇へ
わが国の君主の称号が、5世紀の雄略の代から使われていた「大王」から「天皇」にかわった時期に関しては、従来は推古朝を考える説が強かった。
しかし、その根拠とされてきた法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘、天寿国繡帳銘、野中寺弥勒像台座銘などの金石文は、推古朝のものとは考え難いとされるようになり、再検討が必要となった。
一方、中国では、道教の最高神を表す「天皇」という語が君主の称号として用いられたのは、高宗(唐)の上元元(674)年が最初で、天武の即位2年目にあたる。
もしも推古朝から倭国で「天皇」号が用いられていたのならば、それを遣隋使や遣唐使を通じて知っていたはずの中国の皇帝が、東夷の蛮国の君主と同じ称号を用いるはずはない。むしろ、道教に深い関心をもつ高宗(唐)が「天皇」号を用いているのを知った天武が、「天皇」と自称し始めたものとも考えられる。
また近年、飛鳥浄御原宮に近接する飛鳥池遺跡から、677(天武天皇6)年を表す年紀をもった木簡と一緒に「天皇」と記載された木簡が出土し、最も古い「天皇」号記載例となった。
天武天皇は、大臣をおかず、皇后(天智天皇皇女の鸕野皇女。のちの持統天皇)や、草壁皇子・大津皇子・高市皇子らの皇子、そして諸王などの皇親を重く用いることによって、律令体制国家の早急な建設をめざした。
各官司の統括者には諸王が任じられ、また、律令制支配を浸透させるために頻繁に各地方に派遣された使節の統括者にも、諸王が任命された。
一方、氏族層は、唐(王朝)・新羅戦争という激動が続く東アジア情勢の中、律令国家の官僚の出身母体になることこそ、支配者層として生き残っていく道であることを悟り、皇族や皇親が主導する政治体制の下位に自らを位置付けた。天武朝に始まり、律令国家体制の成立まで続いたこの政治体制を皇親政治という。
「政の要は軍事なり」と詔した天武天皇は、畿内を武装化した軍国体制のもと、強大な天皇権力を利用して国家機構を組織し、皇親や諸豪族をその中に再編成することをめざした。そのためにまず整備したのは、豪族と官吏に登用する際の出身法や、勤務評定と昇進の制度であった。ここに個人の能力と忠誠を昇進条件とする官僚制が、本格的に形成され始めたのである。
その一方では675(天武天皇4)年に、天智天皇が定めた氏族単位の民部を廃止し、682(天武天皇11)年には、官人個人に食封を支給する制度への改定を進めるなど、律令官人化政策が推進された。
さらに681(天武天皇10)年、律令の制定に着手し、685(天武天皇14)年には、そのうちの冠位制のみを先行して施行した。この冠位制は、皇子と諸王のための冠位と、諸臣のための冠位とにわかれており、皇親と諸臣を明確に区分したうえで、皇親を諸臣の上位においたものである。皇親も授位範囲に含ませたことは、全ての支配者層に冠位を授与して国家の官僚にしようとした天武天皇の意図を表している。
同じ681(天武天皇10)年、「帝紀および上古諸事」を記し定めることによって国史の編纂が開始された。これは、それまで天武天皇自身のもとで行われていた私的な歴史書編纂(これがのちの『古事記』に結実する)にかわって行われた大規模な国家レベルの修史事業であり、のちに『日本書紀』として完成することになる。
また、684(天武天皇13)年には八色の姓を定め、天武朝という時点における勢力や功績に対応した形で、姓を再編成した。
八色の姓は、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置からなり、上位4姓が、上級貴族を出す母体の氏族とされた。もともと臣、連の姓をもつ氏族のうちで、有力な者はそれぞれ朝臣・宿禰姓を賜ったが、このときの賜姓からもれた者は、第6・第7の格に落とされたことになる。
天武天皇は、銭貨としての富本銭の鋳造を始めるとともに、すでに藤原京の造営にも着手していたが、律令制定・国史編纂・都城造営という諸事業の完成を見ないまま、686年に死去した。
あとを継いだ皇后の鸕野皇女(持統天皇)は、689年、飛鳥浄御原令を施行し、その「戸令」に基づいて戸籍の作成を命じた。これは庚寅年籍として翌690年に完成したが、五十戸を一里とした国・評・里・戸の制を確立したのも、このときであった。戸は、1戸から1人の兵士を徴発するように、成年男子が平均4丁含まれるように編成された。
また、692(持統天皇6)年には班田使が派遣されたが、このときから全国的な班田収授が始まったとされる。
694(持統天皇8)年には、飛鳥の北方に藤原京が完成し、遷都が行われた。これは、条坊を備えた、わが国最初の本格的な都城である。
持統天皇は、697年に天皇位を孫の文武天皇に譲ったが、その後も太上天皇として天皇を後見し、政治の実権を握った。このようにして、大化改新以来進められてきた、天皇制と官僚制を軸とする中央集権的律令国家体制の建設は、ようやく完成へと近づいたのである。
宮と京
ヤマト政権においては、大王や王の存在が、居住した「宮」と一体のものとして把握されていた。これは、それぞれの王族が、それぞれの皇子宮において養育され、成人後もそこを政治的本拠地にすることが多かったことから生じたものである。
7世紀以前の大王が、即位するごとに歴代遷宮を行ったとされるのも、実は即位以前の皇子宮において、即位後もそのまま執務を行ったことによるのである。
豪族や王族は、政務に参加するために、自己の地盤となる地からその宮まで通う必要があった。ところが藤原京の成立以後は、一つの宮において何代もの天皇が政治をとることとなった。その場合の「宮」(「宮室」「宮城」)とは、天皇の居住する内裏をはじめ、政務をとる場としての朝堂、官人が執務する曹司や官衙などを含むものである。
一方、藤原京以降は、大小の道路によって碁盤目状に区画された条坊制に基づいた街区を構成する広大な地域がつくられた。これを「京」(「京城」「都城」)と呼んで区別している。そこには多くの貴族や官人が宅地を与えられて居住し、また寺院や市場も設けられた。